大阪府のサイクリングロード
27-012 臥龍橋~南河内グリーンロード~石川サイクリングロード 約50km
戦前の河内イメージは水門史観が神聖英雄としてかつぎ上げてその体系をつくりあげる根拠 とされた南朝の将楠木正成の聖地ということで出来上がっており、正成がそこに拠って坂東の 大群と戦った 金剛山、赤坂、千早城といった地名群はもはや単に地名というより 国家論的な抽象性すら帯びていた。 ・・・ 司馬遼太郎
◆高貴寺:空海、慈雲ゆかりの寺。
◆弘川寺:西行終焉の地。
◆観心寺:楠正成が学んだ寺。
◆大ケ塚:中世の自衛村落。
高貴寺ゆかりの空海・慈雲に思いを馳せ、西行のことを考えながら、弘川寺に向かう。楠木正成のことを思いつつ、観心寺を訪れ、大ヶ塚に出かけ、八朔の祭りを楽しむ。
浄土真宗の寺院・顕証寺を中心に寺内町を形成
「八朔」とは、8月1日の事で、朝廷や幕府では重要な儀式が行われていた。一般には稲作の激しい労働も一通り終わってホット一息入れ、秋の豊作を期待する季節の行事で、通年は、9月の第1土曜と日曜で行われている。
空海が「香華の山」とよび、寺名の由来となった真言宗の寺
慈雲尊者(慈雲飲光)
江戸時代中期から後期にかけて、南河内(現大阪府南河内郡河南町)の高貴寺には、 当時の仏教を代表する名だたる僧侶が入山していた。
慈雲飲光(1718~1804)は、真言、禅、梵語、儒学、神道などを広く学び、 釈迦仏道の原点に戻ることをめざした「正法律」を唱え、広く庶民に親しまれ大坂や京都で活躍した高僧。
慈雲尊者は人々の信仰に応えるため、様々な教えを記した個性あふれる墨蹟を残した。
寄寓していた西行が「きさらぎの望月のころ」に没した真言宗の寺
奉建塔周辺 (楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか から、徒歩3分)
1月初旬~2月中旬ぐらいまで。
険阻な山の中にするどく切れこんだ渓があり、 山水をあつめて細川がときに滝のような勢いで流れている。 その細川が麓に達しようとするあたりに観心寺がある。・・・ 司馬遼太郎
楠木 正成
正成は鎌倉幕府をたおした河内ゲリラ隊の隊長であり、さらに足利尊氏を首領とする武家勢力と戦って湊川で戦死した。王を尊び覇を賤しむという宋学という多分に形而上的な学問を身につけてそのイデオロギーに殉じたという意味では、日本史上最初のイデオロギストであったかもしれない。
・・・ 司馬遼太郎
国史赤阪城跡(下赤坂城跡)
標高185.7m、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城です。この域は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたと言われています。
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山に逃れました。正成はこれに合わせてこの地で挙兵し、護良親王( もりながしんのう)も当地に身を寄せられたと伝えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は「太平記」に記述されています。しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。
その後、元弘2年(1332)、正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの城は落城しますが、千早城での籠城戦の間に鎌倉幕府は滅亡しました。
城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上位付近が主部(本丸)であったといわれています。
以上。
(2009.06.14~2014.03.19)
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