大阪府のサイクリングコース
27-062 東高野街道-01
主祭神:八幡大神(誉田別命、比咩大神、息長帯姫命の総称)
社格:二十二社(上七社)の1つ
創建年:貞観2年(860年)
〝吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん〟
平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。
表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製。最初は木製でしたが、寛永13(1636)年に松花堂昭乗(1548~1639)の発案により石鳥居に造り替えられました。
年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる頓宮殿は重儀が斎行される重要な社殿です。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営されたもので、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来、実に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅板葺に葺き替えられました。
徒然草第52段、仁和寺のある法師が山麓の極楽寺・高良神社などを本宮と勘違いし山上まで上がらずに帰ってしまったという話は有名ですが、高良神社は当宮の摂社の中でも、八幡地区の氏神様として篤い崇敬を受けています。7月に行われる「太鼓まつり」では各町内で「太鼓みこし」が豪壮に担がれます。
山上、社殿前にそびえる壮大な南総門から社殿を見ると、社殿が少し西側を向いていることが分かります。これは、御神前にて参拝したのち帰る際に、八幡大神様に対して真正面に背を向けないよう中心を外しているといわれています。
謡曲「弓八幡」と石清水八幡宮
謡曲「弓八幡」は男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
この謡を「弓八幡」と名づける事は、八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓八幡と名付けたのである。とある。
直(すぐ)な御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。
作者世阿弥は平和論者である。武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。これが一能役者の見識であり熱情であったのである。と謡曲大観は論じている。
本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡紳に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。
謡曲史跡保存会
御祭神
中御前-
応神天皇(おうじんてんのう)(第15代) 〔誉田別尊(ほんだわけのみこと〕
西御前-
比咩大神(ひめおおかみ) 〔多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)〕
東御前-
神功皇后(じんぐうこうごう) 〔息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〕
谷崎潤一郎文学碑
蘆刈抄
わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残つてゐる中空に暗く濃く黒ずみわたつてゐた
谷崎潤一郎(1886年~1965年)は、関東大震災を契機に関西に移住して以降、その風土と伝統文化に魅せられ、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表した。小説「蘆刈」は、「春琴抄」等とともに女性を賛美し、永遠の美を追求した中期の名作群の一つとされている。
大山崎から橋本へ渡る淀川の中州が小説の舞台であり、男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている。
この文学碑は、「やわた文学建立事業」の第3基目として、谷崎生誕百年にあたる1986年7月24日に序幕された。
走井餅は江戸時代中期の明和元年(1764年)に大津で創業、湧水「走井」を用いて、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。走井は、成務天皇の産湯に用い賜れるほどの名高い水でありました。
刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。
以上。
(2020.10.25)
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