27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その2
清滝街道との交差点~箱殿東交差点まで 約 8㎞
和田賢秀
楠木正季の息子で、楠木正成の甥。湊川の戦いで伯父・父らが戦死した後、楠木一門の棟梁となった従兄弟の楠木正行に従い、共に勢力を回復していった。
楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。正平2年(1347年)に紀伊国の隅田一族や河内国の細川顕氏、山名時氏を打ち破った。
正平3年(1348年)正月、四條畷の戦いで敗れ、正行らが自刃した後高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に討たれた。
討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として祭っている。
父の意志を継いで戦った 楠正行(くすのき まさつら)を祀る神社
四條畷神社の御祭神・楠正行(くすのき まさつら)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、不利を覚悟で南朝側に立って戦った武将、楠正成公の嫡男です。明治以降、父は大楠公、息子は小楠公と呼ばれ、親しまれました。
正成公は最後の戦いとなった湊川(現神戸市中央区)に出陣する際、桜井(現大阪府三島郡島本町)で遺言します。「父の死後は足利の天下となるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ。それが父への孝行となる」と。これが有名な"桜井の別れ"です。
小楠公墓地
この墓地は、南北朝の南朝忠臣楠正成の長子正行公が足利尊氏の武将高師直(こう の もろなお)の大軍と戦い戦死し葬られた所である。正平3年1月、今から633年前で、その後、ここに小さな石碑が建てられていた。その後、100年余りして何人かが碑の近くに2本の楠を植えたが、これがその2本合し石碑をはさみこみ、このような大木(樹齢約550年)となった。今も正行たちの忠誠を永遠に称えている。
我が会は、この意義ある楠を保存する。
昭和46年3月31日、大阪府天然記念樹に指定されている。
昭和56年11月 畷古文化研究保存会
くすの木の こもれ日あびる 小楠公
樹齢五八七年。巨龍昇天のうねりに似た神木。幹の廻り十二メートル以上。石碑は七メートル五十。
明治十一年一月五日に建碑式を挙行。楠の木は、府指定天然記念物。墓地は、府指定史跡。
のざき観音 慈眼寺
野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。
「野崎参りは 屋形船でまいろ」
江戸時代には、大阪城近くの八軒家浜(はちけんやはま)船着場から屋形船で寝屋川をさかのぼり野崎観音に参詣する「野崎参り」が流行した。
龍間に行くにはここを通るか、古堤街道(中垣内越え)を通るかしかなかった。
寺川を生駒に向かって登ると、大東市龍間という地があり竜間不動尊がある。さらにその上に登ると、龍間神社 がある。
この地は、神武天皇が九州から兵を起こして東のヤマトへと進んだ、いわゆる「神武東征」の舞台だ。「古事記」や「日本書紀」によると、九州をたって瀬戸内海を進み、「浪速(なみはや)の渡(わたり)」を経て、「白肩(しらかた)の津」に停泊。ここから陸路、生駒山を越えて大和を目指すはずだったが……。
大和の有力者、ナガスネビコが行く手に立ちふさがる。「孔舎衙坂の戦い」だ。神武天皇は船に入れてあった盾を手に取って陸地に立ったので、この地を盾津(楯津)と呼ぶようになった。
この生駒山の麓の東高野街道は、昔の海岸線だった。
善根寺春日神社
善根寺春日神社には、古くから「お神酒造り」が連綿と続いています。
毎年10月15日に「王代津祭(おだいつまつり)」が執り行われますが、
その神事に使われるお神酒が本殿南にある「造酒斎殿」で造られます。
社に伝わる話では、春日大社や枚岡神社にお神酒が奉納されていたようです。
生駒西麓の旧街道沿いに金比羅燈籠が建てられているのは、江戸時代この場所に「善根寺浜」と呼ばれる船着場があり、日下と善根寺の荷物や人を大坂へと運び大変賑わったそうです。
生駒山から流れる「大川」に架けられている橋に「浜の橋」等「浜」の付いた橋名があるのはその名残かと思われます。
江戸時代、主要な街道に「一里塚」と呼ばれる、一里毎に松の木等が植えられた塚が築かれました。
安岡正篤(やすおか まさひろ)
戦後、24年師友会を設立、政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となる。中でも、昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。その教えは人物学を中心として、今日なお日本の進むべき方向を示している。58年12月逝去。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。
延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。「石切劔箭命神社二座」。「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。
創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。
石切藤地蔵尊伝説と由来
石切藤地蔵尊は南北朝時代(1340前後)建武の昔、当時有志により施餓鬼供養のため建立された。
大阪夏の陣の戦いの折り。地蔵尊の顔が行方不明になり「首無し地蔵尊」と通称される様になった。
処が不思議な事に、それkら頭痛・めまい・熱病・足腰の痛み・神経痛等の病気平穏祈願すると願いが叶えられ全快した人々の御利益あらたかで信仰者・参拝者が常に絶え間なく繁昌したと伝えられる。
安政(1850)の頃自然に芽生えた「藤」の木が大きく繁茂して地蔵尊を雨露じゃらお守りする様になり春ともなれば大きな紫の見事な花が咲くため、明治の中頃から誰云うなく「藤地蔵尊ふじじぞうそん」と呼ばれ人々に親しまれ信仰されるようになった。も年寄りの方で藤地蔵尊の御利益を御存知の人は、遠く大和路や和歌山、兵庫、京都各方面からお詣りに来られ、特に近年は若い人の入試合格、交通安全、就職、子供授かり、縁談の祈願にお詣りされお徳を授かった方が子安地蔵尊や延命地蔵尊を奉納され現在四体の地蔵尊がお祭りされております。
御命日 毎月二十三日
卍石切藤地蔵尊講
暗越奈良街道と東高野街道
大坂から河内平野を横切り、生駒山を越える奈良への街道として、北から中垣内越、暗越、十三越などの街道がありました。このうち暗越奈良街道は「大坂みち」とも言い、生駒山頂の南側、松尾芭蕉の「菊の香にくらがり登る節句哉」の句で知られる標高455mの暗峠を越える道であり、大坂奈良間を八里八町(約34km)の最短距離で結んでいました。
江戸時代には、大和郡山藩が参勤交代の道として利用したほか、脇往還(脇街道)として大和・伊勢をつなぐ道として旅客貨物の運送や伊勢参りの人々で賑わいました。
いっぽう、生駒山の西麓には、南北に通じる東高野街道があり、京都と紀州(高野山)とをつなぐ道の一つです。この道は「京みち」とも呼ばれ、高野山への参詣道として利用され、また古代の南海道を継承する古道でした。
暗越奈良街道と東高野街道とが交わるこの交差点は、もと宝蔵新家と呼ばれた村の東端にあたり、往時は両街道の要衝として行きかう旅人で賑わったことと思われます。
以上。
(2020.10.03)
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