27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その3
国道308号線との交差点~新大和橋前まで 約 11㎞
「善根寺」「六万寺」「楽音寺」「教興寺」「神宮寺」「太平寺」等、廃寺になったものもあるが、信号の標識にもこれらの町名が記されており、いかに多くの寺院があったことか。
東高野街道・枚岡神社一の鳥居
この前の道は、東高野街道または、京道、紀伊道ともよばれています。
京都九条の教王護国寺(東寺)から伏見を経て、木津川を渡り、山城と
河内の国境である洞ヶ峠を越え、旧河内国に入り、生駒山脈の西麓を経て、
大和川を渡り、石川沿いに南下して、紀見峠を越え、高野山へ至る街道です。古代において、河内の平野部は、池や低湿地のため、この山麓ぞいの道は、河内で唯一の南北道として重要な役割を果たしていました。
南北朝の戦いのとき、生駒山麓一帯は戦場となり、楠正行(くすのきまさつら)や高師直(こうのもろなお)らが、この道を走り回ったことでしょう。
高野街道に面して建てられているこの鳥居は、枚岡神社一の鳥居で、神社までの参道は、松の馬場とよばれ、神社地です。10月の秋祭りには、各地区のふとん太鼓が、ここに集合し、神社に宮入りします。東側にある灯籠は、以前、鳥居の中央部に建てられていました。貞享2年(1685年)の銘があり、市内で最も古い灯籠です。
安永5年(1776年)に刊行された「河内国細見図」にも東高野街道に面して建てられている一の鳥居と平岡社(枚岡神社)までの松の馬場が載せられています。
東高野街道・道路改修記念碑
この前の道は、東高野街道です、京道、紀伊道ともいわれていま す、京都九条の教王護国寺(東寺)から伏見を経て、木津川を渡 り、山城との国境である洞ケ峠を越え、旧河内国に入り、生駒山脈 の西麓を経て、大和川を渡り、石川沿いに南下して、紀見峠を超 えて高野山へ至る街道です。
治承年間(1177~1181年)に開かれ たと伝えられていますが、当時高野詣での宗教街道として、大いに 利用されたため、この伝承があるのでしょう。古代において、河内 の平野部は池や低湿地のため、この山麓ぞいの道は河内で唯一 の南北道であり、かなり古いころから、重要な交通的役割を果たし たことでしょう。
道路改修記念碑は、昭和11年、枚岡村が大阪府に対し、現在の 府道大阪・枚岡・奈良線(産業道路)大坂市内から箱殿付近まで は副員も広げ、整備されているが、それ以上は、狭くて路面も悪く 、全国唯一の針金製造地なのに、大型自動車が通行できないの で改築してほしいという請願をしていました、昭和12年6月、貞明 皇太后の枚岡神社行啓に際し、周辺の道路が、大きく改築された り、新しく敷設されたのを記念して、大阪府が建碑したものです、 位置は若干移動されています。 もとは、ここに東高野街道の里程標が建てられていました。
平成3年3月 東大阪市教育委員会
瓢箪山稲荷神社(ひょうたんやまいなりじんじゃ)
日本三稲荷(諸説あり)の一 辻占総本社 創建は豊臣秀吉
大坂築城に当り、巽の方(大坂城の南東)三里の地に、鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したるを由緒とする。江戸時代より門前の東高野街道沿いにおいて辻占いの風習があり、明治初年宮司山畑阿良美が「辻占」を創始するに及び「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として全国津々浦々に知られている。今の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられた。
社をまつる小丘は、この地一帯にある山畑古墳群の中でも最古最大に属する。6世紀末古墳時代後期の双円墳であり、「瓢箪山」称する由来である。
「横小路」を過ぎると「楽音寺」になり、ここからは八尾市。
心合寺山古墳(しおんじやまこふん)
心合寺山古墳は、5世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000㎡です。墳丘は三段築成で、くびれ部西側に「造り出し(つくりだし)」があり、平坦面には円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔型埴輪(あさがおがたはにわ)などが立て並べられ、斜面には葺石(ふきいし)が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑(かっちゅう)、き鳳鏡(ほうきょう)、刀剣類などの副葬品が出土しています。周辺には、西ノ山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳を含むこれらを総称して「楽音寺(がくおんじ)・大竹(おおたけ)古墳群」と呼んでいます。
松の馬場
高安の馬場ともいう。この東高野街道から玉祖神社までの参道のうち、街道に面して立っている石の大鳥居から東へ入って五百メートルの間には、むかしは美しい松並木であった。
しかし寄る年波と、大気の汚染によってか、年年枯死するものあり今はない
この地は、寛正元(一四六〇)年、畠山政長と義就(よしなり)の争いの時、義就は大和竜田にいた政長を攻めるためここに出陣、二手に分れて竜田に向ったが、神南備山の大合戦となり敗退した。
獅子吼山大慈三昧院教興寺は秦河勝の創建と伝えられ俗に薮寺ともいわれている。
真言律宗西大寺の末寺で境内南方の寺池は臨池式大伽藍の遺構といわれ、鎌倉時代西大寺叡尊によって復興され文永弘安の役には蒙古降伏の大祈祷が行われた。
また永禄五年(一五六二)河内国守護畠山高政と三好義興、松永久秀とのいわゆる教興寺合戦により全焼 江戸時代浄厳和尚によって再興されたが明治十八年の台風で本堂が倒れ旧客殿を仮本堂としている。
東高野街道
俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。
京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。
この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。
東高野街道・恩智街道
東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。
ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。
その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。
恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり
なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。
恩智神社
御祭神 大御食津彦大神 (天児屋根命の五世の孫)
(おおみけつひこのおおかみ、大御食津彦命)
大御食津姫大神 (伊勢神営外宮豊受姫大神)
(おおみけつひめのおおかみ、大御食津姫命)
天児屋根命(元春日)
由緒
当神社の創建は大和時代(470年頃)と伝えられ凡そ1500年余の歴史を有する古社で延喜式内名神大杜(全国285杜の内当神杜二座)である。
古くから朝廷の崇敬厚く持統天皇の元年(689年)10月に行幸されて以来、称徳天皇天平神護景雲2年には河内・丹後・播磨・美作・若侠の地三七戸を神封に充てられ文徳天皇嘉祥3年(850年)10月に正三位、清和天皇貞観元年(859年)正月に従二位、更に正一位に叙せられ恩智大明神の称号を賜り明神大社として廷喜式名神帳に登載される。以後醍醐天皇、村上天皇の御字の大旱ばつに勅使参向して祈祷をされ、その霊験がありそれぞれ蘇生したと伝わる。 また一條天呈正暦5年(994年)4月に中臣氏を宜命使としで幣帛を奉り疫病等災難除けを祈った。これが当神社の御祓祭(夏祭)の始まりとされている。
江戸時代終わりまでは奈良春日社の猿楽は当神社が受け持ち、この猿楽座に対して春日社より米七石五斗金若干が奉納されていた。
尚、三代実録によれば当神杜は河内国下水分社といわれその霊水(清明水)は現在も湧き出ている。
恩智城址
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。
堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。
学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
恩地左近の墓
恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。
湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。
シュミイ地蔵尊堂
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。
高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。
像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。
良盛長盛道梁妙見也阿常助宗
父道善宗恩道明為脩門
道妙□阿妙法
天文十三年甲辰八月時正
河内国恩智□逆修一結衆
敬白
恩智石器時代遺跡
この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。
今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。
若倭彦神社
平野地区の産土神で建、筒草命ならびに若倭彦命を祀る式内社である。
6世紀の頃この地で大いに繁栄した若倭部の連がその祖神を奉斎したものであろう。 姫神は若倭姫神社(山ノ井地区)に祭祀されている。 この人々は豪族の凡河内国造や尾張ノ連とも縁が深く、農耕に励み武事に長じていたと伝えらている。
古い記録には「貞観元年(859)従五位下ヲ授ク」「延喜ノ制ニ小社ニ列セラレ祈年祭並ニ鍬一ロヲ奉ル」とある。
別名を「あかざ八幡」という。
なお付近に平野山古墳群がある。
鐸比古鐸比売神社御縁起
御祭神
鐸比古命
鐸比売命
祭日
7月31日 10月15日
由緒
鐸比古命は垂仁天皇の御子にして記紀には沼帯別命或いは鐸石別命とある。
成務天皇21年の創建と伝えられ延喜式内の古社にして従三位の神階を給う。
往古は鐸比古命は当社奥之院高尾山頂に祭祀され、高尾大明神とも称し、また鐸比売命は高尾山麓姫山に祭祀され比売御前と称した。雨乞いの勅願所でもあった。
中世現在地に祭祀されるも兵火に遭い現本殿は元禄時代の再建である。
御祭神は和気清麿公の御遠祖にして岡山和気神社に御分霊が奉斎されているが、全国的に当御祭神を主神として祭祀する神社は当社と和気神社のみである。
明治5年旧大県郡の郷社に列し一時平野若倭彦神社山ノ井若倭姫神社を合祀した大県法善寺の氏神である。
多鈕細文鏡
大正14年(1925)3月、高尾山から南に300m程降った斜面で発見されました。多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は2~3個の鈕(ちゅう:つまみ)が鏡背の一方の縁に近いところにあり、突線による幾何学文様を配した鏡です。
モンゴル・中国東北地方などの北方系青銅器文化に出現、朝鮮半島の青銅器時代に盛行し、弥生時代に日本にもたらされました。現在日本では七面しかない貴重な鏡です。
この鏡は直径は21.7センチ、日本でも最大のもので、六つの重圏内に三角文、斜格子文、市松文が施され、さらに細かい斜線で埋められています。
成分は銅67.8%、錫23.9%、鉛6.59%。昭和3年以降、東京国立博物館に
補完されています。
大正3年創業。日本酒の醸造技術を用いてワイン醸造を始めた、西日本で現存する最古のワイナリー。
カタシモワイナリーのある柏原市は大阪随一のブドウの産地で、太平寺地区は聖武天皇が東大寺大仏(廬舎那仏)造立を思い立つきっかけとなった智識寺があった場所です。ブドウ農家古民家が立ち並び歴史的風情を残します。急斜面にブドウ畑が広がり、展望台からはあべのハルカスを含む大阪の街並みと大和川を望むことができます。自社農園で減農薬・有機肥料栽培するブドウは大阪府からエコ農産品として認定されています。
ワイナリーの貯蔵庫は大正時代に建てられたもので、国の有形文化財に登録されています。大正昭和に使用されたワイン醸造用具(市指定文化財)などを展示するミュージアムになっており、無料で観覧することができます。カフェ&バーも併設しており、工場直結で管理の行き届いたワインが楽しめます。工場見学ができる「ワイナリー見学会」は予約制で不定期開催。
智識寺東塔刹柱礎石
知識寺は奈良・平安時代河内を代表する大寺院で、東大寺大仏造顕の機縁となった大仏を本尊とし、聖武・孝謙帝、藤原頼道などの参詣、法華寺への銅の運上といった動きが知られています。
伽藍は東・西ニ塔をもつ薬師寺式の配置で、この刹柱礎石は、東塔跡と推定される太平寺2丁目18-7・山本義一氏宅地東南角の土蔵付近から出土したものです。花崗岩製で、この塔心礎の柱穴の直径は122cmあり、この上に建てられていた塔は高さ48.8mの五重塔であったと推定されます。
知識寺の大仏は高さ18mと伝えられ、この礎石から推定される塔も、そうした巨大な仏像を本尊とする大寺院にふさわしい大きさです。
大和川付けかえと中甚兵衛
河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付けかえられたのは、元禄が宝永と改元されて1704年のことです。工事は、わずか8ケ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までには、50年近くの月日を要しました。
その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけはよくなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑よりも3メートルも高い天井川になってしまいました。
しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしましました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。
この付けかえ促進派で終止(始)運動の中心にあったのが、代々の今村村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治朗兵衛の引退や死にもめげず、最後までたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかまりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。
甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。
お墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています」
以上。
(2020.09.28)
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