27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その1
岩清水八幡宮~清滝街道との交差点まで 約 20㎞
応神天皇陵(誉田八幡宮)の前を流れる川も「放生川」という。
航空安全祈願
飛行神社 縁起略記鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
別社 常磐稲荷社当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。平成12年9月
京都八幡市土井四十四
宗教法人 飛行神社
安居橋(あんごばし)
安居(あんご)の名の由来には、諸説があります。
一説では、鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたと言われています。
また、かってすぐ川下にあった「五位橋」に相対する仮の橋として造られたため「相五位橋(あいごいばし)」と呼ばれ、これが変化して安居橋と呼ばれるようになったとの説もあります。
江戸時代はじめには、この場所に橋が架けられていたことが古絵図で確認できますが、構造は反り橋でなく、平橋で描かれています。
元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景のひとつとして選ばれ、数々の歌が詠まれています。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが古くからの「高橋」という反り橋(太鼓橋)が約150m川下にあったことから、この高橋を偲ばせる形で再興されました。
現在は石清水八幡宮の神事である石清水祭(方生会)の舞台として親しまれています。
八幡市
奈良唐招提寺末で律宗に属す。鎌倉時代、正嘉年中(1257~1259)石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。
室町時代には、善法寺通清の息女紀良子が足利3代将軍義満を生んだことから将軍家との関係が深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。
本堂は、内陣を高御座と呼ぶ神仏混淆(コンコウ)の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したとされ、建築年代は不詳であるが、桃山時代の特徴を示すといわれる。
本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形八幡坐像といわれ、明治の神仏分離の際に当寺移された。像高92cm、木造彫眼、平安時代末頃のものといわれる。両脇には、愛染明王・不動明王があり、寄木造り玉眼彩色の等身大で創建時の作である。
奥殿には宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀如来(南北朝時代)や善法寺祐清が造立した観音堂の本尊千手観音菩薩立像(鎌倉時代)など寺宝は多い。放生池畔には、もと大乗院にあったという五輪塔(鎌倉時代)もある。
また、境内には昭和9年の室戸台風で犠牲になった八幡尋常高等小学校の校長生徒等の慰霊碑がある。
1994年3月 八幡市教育委員会
今から約830年前に開かれた正法寺は、室町時代に後奈良天皇の勅願寺となり、その後、徳川家康公の側室、尾張藩初代藩主・徳川義直公の実母である「お亀の方(相応院)」の菩提寺として発展してまいりました。 重要文化財の本堂・大方丈・唐門、京都府指定文化財の小方丈・書院・鐘楼、そして庫裏の七堂伽藍からなり、現在も創建当初の建物の規模そのままに保っています。また重要文化財の阿弥陀如来坐像や狩野派の襖絵、京都府の名勝指定の庭園など見どころもたくさんございます。どうぞ一度、京都八幡の正法寺をご参拝・ご拝観ください。
松花堂 と 吉兆 松花堂弁当
もともとは農家の種子入れだった器を、江戸時代初期に活躍した石清水八幡宮の社僧である 松花堂昭乗(1582~1639)が取り上げ、小物入れにしていたと伝えられています。 吉兆の創業者・湯木貞一がそれを弁当箱に考案したものです。
松花堂及び書院庭園について
「松花堂庭園・美術館」(しょうかどうていえんびじゅつかん)は江戸時代初期の文化人・松花堂昭乗が当初『石清水八幡宮』の境内に造った草庵“松花堂”を中心とした回遊式庭園と美術館。その庭園が「松花堂及び書院庭園」として国指定名勝となっています。
松花堂昭乗は江戸時代初期、寛永文化の中心人物のひとり。小堀遠州とともに茶室を造ったり、石川丈山とともに『酬恩庵(一休寺)庭園』を作庭した人物。
現在“内園”にある「松花堂」及び「泉坊書院」は元は『石清水八幡宮』にありましたが、明治時代の神仏分離により八幡宮のある男山からは取り払われ、1898年(明治31年)に現在地に移築。なお男山の“松花堂跡”も国指定史跡になっていますが、文字通り“跡”であってほぼ何も残されていません。
円福寺
天明年間(1781~88)斯経(しけい)禅師により開創された臨済宗妙心寺末の修行道場である。山門・坐禅堂等を備えた伽藍は、江戸時代末頃より整備され、現在も専門修行道場として、その規模を誇る。
当寺所有の達摩大師坐像は、重要文化財に指定され、像高82cm、檜材寄木造り、玉眼嵌入の鎌倉時代の作である。この像は、もと大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、文化4年(1807)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置した。
同じく重要文化財の大般若経は、奧書はないが書風より奈良時代前期の写経といわれ、薬師寺の印をもち、もと奈良の薬師寺に伝わったものであった。一部、鎌倉・室町時代の補写がある。
洞ヶ峠
この峠は、京都府(山城国)と大阪府(河内国)との国境をなし、かっては東高野街道の要衝の地であったため、南北朝時代には男山・荒坂山とともにたびたび戦乱の舞台になった。
本能寺の変(天正10年(1582))の後、明智光秀と羽柴秀吉が山崎の合戦をした折、光秀に助勢を頼まれた大和郡山の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方しようと観望していた場所として有名である。この誇示から日和見することを「洞ケ峠を決め込む」ともいう。
しかし実際には、順慶は洞ヶ峠まで出かけるどころか、光秀の誘いを蹴り郡山城に篭城していたという。それにもかかわらず、順慶は日和見主義の代表者の汚名を着せられ、一方、そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている。
平成6年 枚方市教育委員会
本尊掛松(ほんぞんかけまつ)
元亨(げんこう)元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)中興の祖法明(ほうみょう)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(じゅういっそんてんとくにょらい)の画像を授かった。
上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。
やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(いぬいじんえも)屋敷(茄子作北町)であったという。
「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。
1994年 枚方市教育委員会
弘法井戸(こうぼういど)
東高野街道ひがしこうやかいどうの道端にあり、土地の人々が「弘法井戸こうぼういど」と呼び親しんでいるのがこの小さな井戸です。そばに「弘法観念水こうぼうかんねんすい」と刻んだ小さな石柱が建てられています。水への感謝と弘法信仰が結びついたものでしょう。
この井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれています。
高野山へ通ずるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う数多くの人々の渇きをいやしたことでしょう。
寝屋川市
四ツ辻(東高野街道)
ここ打上の四ツ辻は、南北に走る東高野街道と東西を走る奈良伊勢道の交わるところです。ここに立つ道標には「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大坂みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれています。伊勢神宮・高野山・柳谷観音にお参りする聖や善男善女を案内したことでしょう。
また、東西に「安政 四巳正月 為父母 施主酒勘」と刻まれており、この道標は、安政4年(1857)に酒屋の勘兵衛さんが父母のために建立したことが分かります。
かって、道標の側には小さな石橋がかかっていました。今その溝を覗くと「往来安全」「酒勘」と刻まれた石橋の一部が見られます。
打上古墳群
打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の「河内名所図会」には、「八十塚同村にあり由縁不評、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚、ほり塚、ぬめり塚、から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かって打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。この付近の地名は、高塚といいます。ここにある多くの花崗岩の巨石は、かってこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられます。
弘法大師像
また、ここには、多くの巨石で祠をつくり「お大師さん」と呼び親しまれている弘法大師像が安置されています。いつごろ安置されたか不明ですが、像の台石には「四十番」「四十一番」の番号が刻まれています。この付近にあります打上の弘法井戸、正縁寺などの大師像にも前後の見られるところから、これは札所番号で、当時、これらの大師像を巡る「霊場巡礼」が行なわれていたと考えられます。打上では、今も大師御膳講の人々が毎月二十一日には御膳をお供えしています
二月堂石灯籠
ここ旧東高野街道沿いにあります2つの石灯籠の内、左側の大きな灯篭は、花崗岩で組み立てられ、高さ約3mを測ります。脚部の正面に「二月堂」と刻まれ、側面には、今(1992年)から約150年前の「天保十四年」(1843)の年号が刻まれています。
「二月堂」は、奈良東大寺二月堂を指すのでしょう。くわしいことはわかりませんが、古老の話によれば、当地には「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも、三月のお水取りの頃には、東大寺二月堂に参拝するといいます。
また、右側の石灯籠は「八幡宮」と刻まれ、江戸時代中頃の明和3年(1766年)の年号が刻まれています。これは、国守神社が八幡宮と呼ばれていた頃に氏子の人々によって寄進されたものです。
以上。
(2020.10.27)
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