27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その4
新大和橋~富田林市中野町3丁目交差点まで 約 8㎞
「新大和橋」は、幅の狭い歩行者自転車専用道路 ですが、現在藤井寺市域に関わって大和川・石川に 架かる道路橋の中では、石川橋に次いで古い歴史を 持つ橋です。
自動車は通れない小さな橋ですが、 実は「八尾河内長野自転車道線」というれっきとした大阪府 道の一部なのです。八尾河内長野自転車道線は、「802号」とい う府道番号を与えられており、「南河内サイクルライン」という 愛称も付けられています。
国府八幡神社(こうはちまんじんじゃ)
国府八幡神社の正確な創建年は不明ですが、近世の初期に5kmほど南にある壺井八幡宮(羽曳野市)の御分霊を勧請して創建されたとされています。八幡神社なので主祭神は八幡大神(応神天皇)ですが、春日大神、住吉大神も祀られているようです。
ちなみに、第19代允恭天皇の陵がすぐ西にありますが、允恭天皇の父は第16代仁徳天皇、そして祖父が第15代応神天皇です。
道明寺略縁起
当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。
仏法に帰依されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。
これが当時の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当時に立寄られ一首を残されています。
啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の
鳴からむ里の暁もかな
戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興成り朱印地に認められました。明治五年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大正八年には本堂の落成をみ、多宝塔を加え建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺として現在に至っております。
道明寺天満宮
菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したものと考えられる。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。
広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。
建碑の由来
日本書紀ニ拠レバ第十一代垂仁天皇ノ御宇菅公の祖野
見宿祢土偶ヲ以テ殉死ニ代ヘント進言シ大ニ嘉賞セラ
レ其ノ功ニヨリ土部職ニ任ジ因テ本姓ヲ改メ土部臣ト
謂ヒ鍛地ヲ賜フ土部郷即チ之ナリ江談抄ニ所謂土部氏
ノ本邑ニシテ土偶即チ埴輪ヲ作リシ窯跡ナレバ我国陶
業発祥ノ地トシテ由緒ノ所也時ニ大東亜戦一周年ニ際
会シ其建設事業モ着々進捗発展ヲ遂ゲントスルノ秋我
等組合有志相詢リ此碑ヲ建立シ以テ先人ノ遺跡ヲ永
後昆ニ垂レントスト云爾 組長 欅田藤郎誌
道明寺天満宮 由緒
垂仁天皇の32年(西暦3)、野見宿祢(のみのすくね)が、埴輪を創り殉死に代えた功績により、「 土師(はじ) 」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠祖天穂日命をお祀りし、土師神社と称した。
推古天皇2年(594)には、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺を建立。
土師氏は「菅原」へと改姓し、菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、道真公は当地を度々訪問される。
昌泰4年/延喜元年(901)道真公筑紫へ下向の時、
世につれて浪速入江もにごるなり
道明らけき寺ぞこひしき
と詠まれ、道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり、
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の
なからん里の暁もかな
との御歌を残されて西海に赴かれた。
その後、天暦元(947)に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝として安置し、天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。
明治5年(1872)、神仏分界により、尼寺は西に移転し現在に至る。
譽田八幡宮は応神天皇(第15代 譽田別尊:ほむたわけのみこと)、仲哀天皇(第14代)、神功皇后を主祭神とし、永享5年(1433)に足利義教(室町幕府第6代将軍)が奉納した「譽田宗廟縁起絵巻」には、欽明天皇(第29代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています。
鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として、将軍家をはじめとする武士の信仰をあつめ、社殿の造営や宝物の奉納がおこなわれましたが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火にかかることもありました。
その後、豊臣秀吉から社領の寄進を受け、豊臣秀頼が片桐且元に命じて社殿の再建をおこないました。江戸時代になってからは、幕府による保護のもとに社殿の再建と整備がすすめられました。
享和元年(1801)の「河内名所図会」や天保9年(1838)の古図には、本社や摂社、神宮寺の堂宇など多くの建物が並び、参詣の人々が訪れるようすが描かれています。
源頼朝の寄進と伝えられる塵地螺鈿金銅装神輿(国宝)や、譽田丸山古墳から発見された金銅製透彫鞍金具(国宝)、「譽田宗廟縁起絵巻」(重要文化財)、「神功皇后縁起絵巻」(重要文化財)など、多くの貴重な文化財を社宝としています。
誉田林古戦場址
誉田八幡宮の付近は、南北朝期から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり本だ八幡宮『社前の盟約』が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。
放生橋(ほうじようばし)
応神天皇を祀る誉田八幡宮の本殿から応神天皇陵に向かう参道を横切って流れる放生川には、放生橋と呼ばれる石の反橋が架けられています。
橋の本体は長さ5.8m、幅2.5m、高さ4.8mで、3本の橋脚の上に橋桁を渡して、幅30㎝、厚さ12㎝程の花崗岩製の橋板を並べ、その上には装飾をもつ束石を置いて高さ70㎝の欄干が組まれています。両端には擬宝珠(ねぎの花に似た装飾)を付けた柱が立てられ、ㇵの字形に開いた袖高欄が設けられます。
大きな反りをもつことに特徴があり、木造の橋の構造を応用して造られた石橋と考えられます。橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、その後、何度かの修理が行われています。
9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、本殿からこの橋を渡って応神天皇陵へ渡御する神事が厳かに執り行われます(現在は脇の平橋を渡ります)。
応神天皇を主祭神とする譽田八幡宮と、応神天皇陵との関係を象徴する放生橋は、歴史的にも重要な遺構といえます。
誉田八幡宮
羽曳野市譽田3丁目、応神陵(譽田山)古墳の南側に位置する譽田八幡宮は、本来応神陵古墳の後円部頂上に所在したと伝えられ、平安時代中頃の永承6(1051)年に現在地に移されたと記されて入れる。
旧社殿は、天正年間の織田信長による兵火によって焼失したが、慶弔11(1606)年、豊臣秀頼によって再建されたのが現在の社殿である。
祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后そして住吉三神である。
境内は、江戸時代末まで長野山護国寺が併存していたが、明治時代の廃仏棄釈によって廃寺となった。
江戸時代の享和元(1801)年に刊行された『河内名所図会』には、例祭(旧暦4月8日)として車祭(だんじり)に作り花を飾り、笛・太鼓・鉦を囃している様子が描かれている。
白鳥神社
白鳥神社縁起によると、もとは軽里西方の伊岐谷に創建された伊岐宮(いきのみや)が本来の宮であったようだ。その後、戦火に追われ峯ヶ塚古墳墳頂に小さな祠として祀られていたものが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し荒廃していたものを、江戸時代初めの寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられている。祭神は、江戸時代には白鳥大明神、午頭天王(ごずてんのう)、婆利妻女(はりさいにょ)の三神が祀られていましたが、現在は日本武尊と素戔鳴命(すさのうのみこと)が祀られています。秋には、だんじりが町内をめぐり、大変にぎわいます。
高屋神社
高屋台地の中央南寄りの高屋集落の中にあり延喜式内の古社である。
高屋丘陵は古墳時代のころは、物部一族の系統である神別氏族の「高屋連」の本貫地であったことから、高屋連一族が氏神として創始したものと考えられる。
社伝によると、宣化天王3年(538)勅命によってこの地に創建されたものと伝えられている。祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと:物部氏の遠祖)と「広国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと:安閑天王)の二神となっている。
この高屋連については、平安初期の高仁6年(815)に編さんされた新撰姓氏録の河内国神別の中に「高屋連は饒速日命の10世の孫、伊己止尼大連の後なり」と明記されているし、続日本紀の文武天皇の慶雲元年(704)6月の条に「高屋連業女の3つ児誕生」の件や、上の太子叡福寺裏山の古代墓から出土の「宝亀7年の高屋連枚人墓誌」および古市西琳寺関係文書の中にでてくる「西琳寺の僧名」からも、河内国古市郡の人、高屋連○○と記された人々を散見することができる。
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)
「みぐくるみたま」という名は、「水泳御魂(みくくるみたま)」、つまり水を司り、山からの水を土地に配分する神を祭るということに由来しています。創建は崇神天皇、祭神は大国主命です。神社の本殿の裏山には4基からなる古墳群があり、神体山となっています。御山の中腹に鎮座する本殿へは階段と参拝道が設けられています。下拝殿・上拝殿があり、どちらからも参拝出来るようになっています。 下拝殿横から続いている一の宮参拝道は、本殿を囲む形で設けられており、榊の御神木に併せて方角の先々に鎮座する一の宮の遥拝所が設けられています。 楠木氏は上水分社<建水分神社 千早赤阪村鎮座>と共に美具久留御魂神社を下水分社と称し氏神として信仰し、神領寄進や社殿造営を行っています。
以上。
(2020.10.01)
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