東高野街道をロードバイクで辿る その4 新大和橋~富田林市中野町3丁目交差点まで

大阪府のサイクリングコース
27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その4
新大和橋~富田林市中野町3丁目交差点まで 約 8㎞
 
東高野街道の内、大和川を渡る柏原市の「新大和橋」から、国道170号線が大阪府道32号美原太子線と交差する、富田林市の「中野町3丁目交差点」までをロードバイクで辿り、街道の様子と旧跡を記録した。
 
「道明寺」楼門
「道明寺」楼門。
 

 

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東高野街道の全長と当コースの位置:その4
 
その4:「新大和橋前」から「中野町3丁目交差点」までの区間。

東高野街道の全長と当コースの位置

 
 
 
コース地図
 
柏原市の「新大和橋前」を起点に、富田林市の国道170号線「中野町3丁目交差点」までの【27-062 東高野街道 その4 約 8㎞ 】。
 
 
 
 
 
1. 新大和橋~藤井寺市道明寺
 
大和川を渡る柏原市側からの「新大和橋」。
大和川を渡る柏原市の「新大和橋」
 
「新大和橋」を渡ると対岸は石川の左岸で、「南河内サイクルライン(八尾河内長野自転車道線)」。右は「近鉄道明寺線」。
対岸は石川の左岸で「南河内サイクルライン(八尾河内長野自転車道線)」。右は「近鉄道明寺線」
 
「新大和橋」を行く。
新大和橋
 

 「新大和橋」は、幅の狭い歩行者自転車専用道路 ですが、現在藤井寺市域に関わって大和川・石川に 架かる道路橋の中では、石川橋に次いで古い歴史を 持つ橋です。
 自動車は通れない小さな橋ですが、 実は「八尾河内長野自転車道線」というれっきとした大阪府 道の一部なのです。八尾河内長野自転車道線は、「802号」とい う府道番号を与えられており、「南河内サイクルライン」という 愛称も付けられています。

 
「石川」の堤から、右手の「国府」に降りる。
「石川」の堤から「国府」に降りる
 
突き当りに、「国府八幡神社(こうはちまんじんじゃ)」がある。
このあたりの地名の「国府」は、古代の河内国府に由来しており、河内国の政治的中心地であったと考えられる。
突き当りに、「国府八幡神社(こうはちまんじんじゃ)」がある
 
「国府八幡神社」。背後に見える森は「允恭天皇(いんぎょうてんのう)陵」。
突き当りに、「国府八幡宮」がある
 

 国府八幡神社(こうはちまんじんじゃ)

 国府八幡神社の正確な創建年は不明ですが、近世の初期に5kmほど南にある壺井八幡宮(羽曳野市)の御分霊を勧請して創建されたとされています。八幡神社なので主祭神は八幡大神(応神天皇)ですが、春日大神、住吉大神も祀られているようです。

 ちなみに、第19代允恭天皇の陵がすぐ西にありますが、允恭天皇の父は第16代仁徳天皇、そして祖父が第15代応神天皇です。

 
「国府八幡宮」の前を南下すると、右手に「蓮休寺」がある。
「国府八幡宮」の前を南下すると、右手に「蓮休寺」がある
 
「蓮休寺」浄土真宗本願寺派。
「国府八幡宮」の前を南下すると、右手に「蓮休寺」がある
 
大阪府道・奈良県道12号 堺大和高田線に出て、近鉄南大阪線の踏切を渡る。
大阪府道・奈良県道12号 堺大和高田線に出て、近鉄南大阪線の踏切を渡る
 
踏切を越えると、道明寺天満宮境内の塀の横を進む。
踏切を越えると、道明寺天満宮境内の塀の横を進む
 
右角に「白光龍王大神」のムクノキが現れる。
右角に「白光龍王大神」のムクノキが現れる
 
「道明寺」東門の前に出る。
「道明寺」東門の前に出る
 
「道明寺」東門の前から北を望む。
「道明寺」東門の前から北を望む
 
道明寺の横を南下する東高野街道:「道明寺」東門の前から南を望む。
「道明寺」東門の前から南を望む
 
「道明寺」本堂。
「道明寺」本堂
 
「道明寺略縁起」説明版。
「道明寺略縁起」
 

 道明寺略縁起

 当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。

仏法に帰依されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。

これが当時の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当時に立寄られ一首を残されています。
 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の
        鳴からむ里の暁もかな

 戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興成り朱印地に認められました。

 明治五年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大正八年には本堂の落成をみ、多宝塔を加え建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺として現在に至っております。

引用元:「道明寺略縁起」説明版
 
「道明寺」楼門。
「道明寺」楼門
 
「道明寺」の正面から楼門への参道。
「道明寺」の正面から楼門への参道
 
道明寺の東隣に「道明寺天満宮」がある。
道明寺の東隣に「道明寺天満宮」がある
 
階段の右にある、「道明寺天満宮」案内板。
階段の右にある、「道明寺天満宮」案内板
 

 道明寺天満宮

 菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したものと考えられる。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。
 広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。

引用元:「道明寺天満宮」案内板
 
 
石段を登って神門の左手前に、「土師窯跡」の碑がある。
石段を登って神門の左手前に、「土師窯跡」の碑がある
 

 建碑の由来
日本書紀ニ拠レバ第十一代垂仁天皇ノ御宇菅公の祖野
見宿祢土偶ヲ以テ殉死ニ代ヘント進言シ大ニ嘉賞セラ
レ其ノ功ニヨリ土部職ニ任ジ因テ本姓ヲ改メ土部臣ト
謂ヒ鍛地ヲ賜フ土部郷即チ之ナリ江談抄ニ所謂土部氏
ノ本邑ニシテ土偶即チ埴輪ヲ作リシ窯跡ナレバ我国陶
業発祥ノ地トシテ由緒ノ所也時ニ大東亜戦一周年ニ際
会シ其建設事業モ着々進捗発展ヲ遂ゲントスルノ秋我
等組合有志相詢リ此碑ヲ建立シ以テ先人ノ遺跡ヲ永
後昆ニ垂レントスト云爾     組長 欅田藤郎誌

引用元:「土師窯跡」の碑
 
 
「道明寺天満宮」の境内。
「道明寺天満宮」の境内
 
「道明寺天満宮」の拝殿。手前左は、「能楽殿」。
「道明寺天満宮」の拝殿。手前左は、「能楽殿」。
 
「道明寺天満宮」の由緒書き。
「道明寺天満宮」の由緒書き
 

 道明寺天満宮 由緒

 垂仁天皇の32年(西暦3)、野見宿祢(のみのすくね)が、埴輪を創り殉死に代えた功績により、「 土師(はじ) 」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠祖天穂日命をお祀りし、土師神社と称した。
 推古天皇2年(594)には、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺を建立。
 土師氏は「菅原」へと改姓し、菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、道真公は当地を度々訪問される。
 昌泰4年/延喜元年(901)道真公筑紫へ下向の時、
 世につれて浪速入江もにごるなり
    道明らけき寺ぞこひしき
と詠まれ、道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり、
 鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の
    なからん里の暁もかな
との御歌を残されて西海に赴かれた。
 その後、天暦元(947)に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝として安置し、天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。
 明治5年(1872)、神仏分界により、尼寺は西に移転し現在に至る。

引用元:「道明寺天満宮」の由緒書き
 
 
道明寺から約200mほど南に進むと、街道脇に「弘法大師御休石(おやすみいし)」と書かれた標柱の立つ祠がある。中に祀られているのは、「弘法大師が腰を掛けて休んだ」と伝えられる大きな石。
道明寺から約200mほど南に進むと、街道脇に「弘法大師御休石(おやすみいし)」と書かれた標柱の立つ祠がある
 
道明寺4丁目で突き当り、道が「かぎの手」に曲がる。右に直進すると「応神天皇陵古墳」。
道明寺4丁目で道が「かぎの手」に曲がる。右に直進すると「応神天皇陵古墳」
 
「東高野街道」は、住宅街の中を通って西名阪自動車道の下を潜ってゆく。
「東高野街道」は、住宅街の中を通って西名阪自動車道の下を潜る
 
 
 
2. 羽曳野市誉田~羽曳野市古市 大乗川
 
すぐに、国道170号線を横断する地点に出る。信号は無く、一旦停止をして前方を見ると「応神天皇陵」の杜が見える。
すぐに、国道170号線を横断する地点に出る。信号は無く、一旦停止して前方を見ると「応神天皇陵」が見える
 
石畳の道になり、羽曳野市立誉田中学校の横を進む。
石畳の道になり、羽曳野市立誉田中学校の横を進む
 
誉田中学校(右の建物)の正門前に東高野街道と八尾道の分岐点があり、天保9年(1838)の道標が置かれてる。左の道標には『右 道明寺玉手 左 八尾久宝寺』。その右に「東高野街道」の石碑がある。
誉田中学校(右の建物)の正門前に東高野街道と八尾道の分岐点があり、天保9年(1838)の道標が置かれてる。左の道標には『右 道明寺玉手 左 八尾久宝寺』。その右に「東高野街道」の石碑がある。
 
この辺りの道には、京に向かって「東高野街道」のペイントが施してある。
この辺りの道には、京に向かって「東高野街道」のペイントが施してある
 
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の東門に到着。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の東門に到着
 
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の参道と鳥居。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の参道と鳥居
 
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の案内板。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の案内板
 

 譽田八幡宮は応神天皇(第15代 譽田別尊:ほむたわけのみこと)、仲哀天皇(第14代)、神功皇后を主祭神とし、永享5年(1433)に足利義教(室町幕府第6代将軍)が奉納した「譽田宗廟縁起絵巻」には、欽明天皇(第29代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています。

 鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として、将軍家をはじめとする武士の信仰をあつめ、社殿の造営や宝物の奉納がおこなわれましたが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火にかかることもありました。

 その後、豊臣秀吉から社領の寄進を受け、豊臣秀頼が片桐且元に命じて社殿の再建をおこないました。江戸時代になってからは、幕府による保護のもとに社殿の再建と整備がすすめられました。

 享和元年(1801)の「河内名所図会」や天保9年(1838)の古図には、本社や摂社、神宮寺の堂宇など多くの建物が並び、参詣の人々が訪れるようすが描かれています。

 源頼朝の寄進と伝えられる塵地螺鈿金銅装神輿(国宝)や、譽田丸山古墳から発見された金銅製透彫鞍金具(国宝)、「譽田宗廟縁起絵巻」(重要文化財)、「神功皇后縁起絵巻」(重要文化財)など、多くの貴重な文化財を社宝としています。

引用元:誉田八幡宮の案内板
 
 
鳥居をくぐった右手に「誉田林古戦場址」の碑が立っている。
鳥居をくぐった右手に「誉田林古戦場址」の碑が立っている
 
「誉田林古戦場址」説明版。
「誉田林古戦場址」説明版
 

 誉田林古戦場址

 誉田八幡宮の付近は、南北朝期から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
 すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり本だ八幡宮『社前の盟約』が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。

引用元:「誉田林古戦場址」説明版
 
 
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の中門と本殿。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の中門と本殿
 
放生橋。
放生橋
 
応神天皇陵。
応神天皇陵
 

 放生橋(ほうじようばし)
 応神天皇を祀る誉田八幡宮の本殿から応神天皇陵に向かう参道を横切って流れる放生川には、放生橋と呼ばれる石の反橋が架けられています。
 橋の本体は長さ5.8m、幅2.5m、高さ4.8mで、3本の橋脚の上に橋桁を渡して、幅30㎝、厚さ12㎝程の花崗岩製の橋板を並べ、その上には装飾をもつ束石を置いて高さ70㎝の欄干が組まれています。両端には擬宝珠(ねぎの花に似た装飾)を付けた柱が立てられ、ㇵの字形に開いた袖高欄が設けられます。
 大きな反りをもつことに特徴があり、木造の橋の構造を応用して造られた石橋と考えられます。橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、その後、何度かの修理が行われています。
 9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、本殿からこの橋を渡って応神天皇陵へ渡御する神事が厳かに執り行われます(現在は脇の平橋を渡ります)。
 応神天皇を主祭神とする譽田八幡宮と、応神天皇陵との関係を象徴する放生橋は、歴史的にも重要な遺構といえます。

引用元:放生橋 説明版
 
 
「誉田八幡宮」の白壁に沿って、南に進む。
「誉田八幡宮」の白壁に沿って、南に進む
 
すぐ南に、西(右手)からTの字に交わる「古市街道(摂津平野郷と南河内の古市を結ぶ)」との交差点があり、右手に道標が1つある。
すぐ南に、西(右手)からTの字に交わる「大阪道(野中を経て平野に至る)」との交差点があり、右手に道標が1つある
 
左手には、道標が2つある。
左手には、道標が2つある
 
 
参考:こちらに「藤井寺市の昔の街道」が詳しく掲載されている。。
 
 
さらに南下すると、国道170号線を横断する信号に出る。
さらに南下すると、国道170号線を横断する信号に出る
 
横断する手前に、風格のある常夜燈がある。
横断する手前に、風格のある常夜燈がある
 
その脇に「東高野街道」と書かれた石碑に、「誉田八幡宮」の「車楽(だんじり)祭」の絵が描かれた説明板が架けてある。
その脇に「東高野街道」と書かれた石碑に、「誉田八幡宮」の「車楽(だんじり)祭」の説明板が架けてある
 

 誉田八幡宮

 羽曳野市譽田3丁目、応神陵(譽田山)古墳の南側に位置する譽田八幡宮は、本来応神陵古墳の後円部頂上に所在したと伝えられ、平安時代中頃の永承6(1051)年に現在地に移されたと記されて入れる。
 旧社殿は、天正年間の織田信長による兵火によって焼失したが、慶弔11(1606)年、豊臣秀頼によって再建されたのが現在の社殿である。
 祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后そして住吉三神である。
 境内は、江戸時代末まで長野山護国寺が併存していたが、明治時代の廃仏棄釈によって廃寺となった。
 江戸時代の享和元(1801)年に刊行された『河内名所図会』には、例祭(旧暦4月8日)として車祭(だんじり)に作り花を飾り、笛・太鼓・鉦を囃している様子が描かれている。

引用元:説明板
 
 
国道170号線を越えると、近鉄南大阪線の踏切がある。
国道170号線を越えると、近鉄南大阪線の踏切がある
 
街道は国道、近鉄南大阪線を越えると、「古市」に入る。この辺りの道は、両側が赤のカラー舗装で、真ん中にコンクリートタイル板が貼ってある。
街道は国道、近鉄戦を越え、「古市」に入る。この辺りの道は、両側が赤のカラー舗装で、真ん中にコンクリートタイル板が貼ってある
 
途中で鍵型に屈折している道を進む。屈折後すぐ右に「白鳥神社」の石鳥居が見える。
途中で鍵型に屈折している道を進む。屈折後すぐ右に「白鳥神社」の石鳥居が見える。
 
180m程の参道を入って行くと「白鳥神社」がある。
180m程の参道を入って行くと「白鳥神社」がある
 
「白鳥神社」正面の二の鳥居。
「白鳥神社」正面の二の鳥居
 
「白鳥神社」拝殿・本殿。右の鳥居は「白長大明神」。神社の裏手は、近鉄南大阪線の「古市駅」。
「白鳥神社」本殿
 

 白鳥神社
 白鳥神社縁起によると、もとは軽里西方の伊岐谷に創建された伊岐宮(いきのみや)が本来の宮であったようだ。その後、戦火に追われ峯ヶ塚古墳墳頂に小さな祠として祀られていたものが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し荒廃していたものを、江戸時代初めの寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられている。

  祭神は、江戸時代には白鳥大明神、午頭天王(ごずてんのう)、婆利妻女(はりさいにょ)の三神が祀られていましたが、現在は日本武尊と素戔鳴命(すさのうのみこと)が祀られています。秋には、だんじりが町内をめぐり、大変にぎわいます。

 
 
街道に戻って、少し行くと「竹内街道」との交差点になる。
街道に戻って、少し行くと「竹内街道」との交差点になる
 
交差点から南50mの右手に、伊勢燈籠がある。
交差点から南50mの右手に、伊勢燈籠がある
 
やがて、川を渡る橋に出る。
やがて、川を渡る橋に出る
 
「髙屋橋」と「大乗川」。
「髙屋橋」と「大乗川」
 
 
 
3. 羽曳野市古市 城山~富田林市桜井
 
橋を渡ると登りになり、又、近鉄南大阪線の踏切がある。
橋を渡ると登りになり、又、近鉄南大阪線の踏切がある
 
「安閑天皇古市高屋丘陵」の南側を登ってゆくと、城山北の信号の手前で「東高野街道」は左の細い道に入ってゆく。
「安閑天皇古市高屋丘陵」の南側を登ってゆくと、城山北の信号の手前で「東高野街道」は左の細い道に入ってゆく
 
すぐに旧170号線に出て「城山」の信号で、左手の細道に入ってゆく。
すぐに旧170号線に出て「城山」の信号で、左手の細道に入ってゆく
 
右手に「高屋神社」がある。
右手に「高屋神社」がある
 
ボロボロの「高屋神社」案内板。
「高屋神社」案内板
 

 高屋神社
 高屋台地の中央南寄りの高屋集落の中にあり延喜式内の古社である。
高屋丘陵は古墳時代のころは、物部一族の系統である神別氏族の「高屋連」の本貫地であったことから、高屋連一族が氏神として創始したものと考えられる。
 社伝によると、宣化天王3年(538)勅命によってこの地に創建されたものと伝えられている。祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと:物部氏の遠祖)と「広国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと:安閑天王)の二神となっている。
 この高屋連については、平安初期の高仁6年(815)に編さんされた新撰姓氏録の河内国神別の中に「高屋連は饒速日命の10世の孫、伊己止尼大連の後なり」と明記されているし、続日本紀の文武天皇の慶雲元年(704)6月の条に「高屋連業女の3つ児誕生」の件や、上の太子叡福寺裏山の古代墓から出土の「宝亀7年の高屋連枚人墓誌」および古市西琳寺関係文書の中にでてくる「西琳寺の僧名」からも、河内国古市郡の人、高屋連○○と記された人々を散見することができる。

引用元:「高屋神社」案内板
 
 
南阪奈道路の下、水守の交差点に出る。
南阪奈道路の下、水守の交差点に出る
 
水守の交差点を直進する。
水守の交差点を直進する。
 
電柱に、「東高野街道」↑河内長野方面の標識が掲げられている。
電柱に、「東高野街道」↑河内長野方面の標識が掲げられている
 
富田林市立喜志小学校の横で、突き当りになる。
富田林市立喜志小学校の横で、突き当りになる
 
右に行くと、国道170号線の「喜志」交差点に出る。右が国道170号線。
右に行くと、国道170号線の「喜志」交差点に出る
 
国道170号線を南下すると、「桜井」の交差点に来る。
「桜井」の交差点
 
「桜井」の交差点の右側を見ると、「美具久留御魂神社」の鳥居が立っている。
「桜井」の交差点に来ると、右側に「美具久留御魂神社」の鳥居が立っている
 

 美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)
「みぐくるみたま」という名は、「水泳御魂(みくくるみたま)」、つまり水を司り、山からの水を土地に配分する神を祭るということに由来しています。創建は崇神天皇、祭神は大国主命です。神社の本殿の裏山には4基からなる古墳群があり、神体山となっています。御山の中腹に鎮座する本殿へは階段と参拝道が設けられています。下拝殿・上拝殿があり、どちらからも参拝出来るようになっています。 下拝殿横から続いている一の宮参拝道は、本殿を囲む形で設けられており、榊の御神木に併せて方角の先々に鎮座する一の宮の遥拝所が設けられています。 楠木氏は上水分社<建水分神社 千早赤阪村鎮座>と共に美具久留御魂神社を下水分社と称し氏神として信仰し、神領寄進や社殿造営を行っています。

 
「美具久留御魂神社」に向かって見る。レインボーホール(富田林市市民会館)前辺り。
レインボーホール(富田林市市民会館)前辺り
 
新国道170号外環状線、宮前交差点。
新国道170号外環状線、宮前交差点
 
「美具久留御魂神社」入り口鳥居。
「美具久留御魂神社」入り口鳥居
 
「美具久留御魂神社」説明板。
「美具久留御魂神社」説明板
 
「美具久留御魂神社」鳥居。
「美具久留御魂神社」鳥居
 
「美具久留御魂神社略記」。
美具久留御魂神社略記
 
「美具久留御魂神社」境内案内図。本殿は、山の上にある様子。
「美具久留御魂神社」境内案内図
 
下拝殿。
下拝殿
 
この上に、上拝殿や本殿があるようだが、今回は参拝を見送る。
この上に、上拝殿や本殿があるようだが、今回は参拝を見送る
 
 
次のコース:
 
 

以上。
(2020.10.01)

 

 

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