高野街道 (河内長野市街)を走る

大阪府のサイクリングコース
高野山へと続く 高野街道 (河内長野市街)
27-101 河内長野経由コース
 
たまたま見たテレビ番組「三宅裕司 ふるさと探訪」に、河内長野が出てきた。この番組で探訪された場所は【いつものロードバイクコース】にあるが、灯台下暗し・・・知らなかった。
 
河内長野での、3つのテーマ。
自慢1 高野街道の絶品カレーパン
自慢2 塩が有名なお寺!
自慢3 滝畑の磨崖仏は必見!
 
高野街道の絶品カレーパン:季節料理 三佳屋
高野街道の絶品カレーパン:季節料理 三佳屋。
 
新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言』が解除されて始めてのライド、先ずは、絶品カレーパンを探しに河内長野市街の高野街道探訪に出かける。
 

 

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コース地図
 
長野町から三日市町までの高野街道コース地図と「高野街道の絶品カレーパン」の場所。

 
コースのポイントと標高差
 
石川に架かる舊西條橋(きゅうさいじょうばし)を渡ってR371に出るまでの区間と、R371を越えての「別久坂」がゲキサカになっている。
コースのポイントと標高差
 
 
 
 
 
1. 高野街道について
 
高野山へと続く街道。

 平安遷都後の延暦15年(796)に紀見峠越えの新しい道が開かれその後、弘仁7年(816)には、空海が高野山を開いたので、この街道はますます重要性を増し沿道の村々は発展しました。

 高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(1603~1867)には大変賑わいました。また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。

 
3つの街道の交点にある河内長野。(西高野街道ガイドから転載。
河内長野は、東高野街道のゴール地点であるとともに、高野山へ向かう高野街道のスタート地点となる
 
西高野街道。

 西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわい全盛期をむかえました。明治35年(1902)堺市草尾の辻に大阪府が建立した道標に「西高野街道」と刻んでいるのをみても、この道の繁栄ぶりを伝えています。
 現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したものです。

 
 
近鉄・南海河内長野駅前のアーケード街を抜けたところに、高野街道の石碑がある。
近鉄・南海河内長野駅前のアーケード街を抜けたところに、高野街道の石碑がある
 
石碑の全景。
石碑の全景
 
東西の高野街道が合流し、高野山へと向かう地点が河内長野。
東西の高野街道が合流し、高野山へと向かう地点が河内長野
 
 
 
2. 長野町の高野街道
 
高野街道のスタート地点。
河内長野駅前からスタート地点へ
 
高野街道の入り口には「高野街道」と書かれた道標があり、その奥には「吉年(よどし)邸のくすのき」が見える。
高野街道の入り口には「高野街道」と書かれた道標があり、その奥には「吉年(よどし)邸のくすのき」が見える。
 
高野街道道標の脇にある、河内長野商工会創立50周年記念碑。
河内長野市商工会創立50周年に建てられた石碑の案内板

 
河内長野商工会創立50周年記念碑の内容。

 河内長野市商工会は創立50周年を記念し、高野街道の「にぎわい・まち並み再生」の 一助とならんことを願い、この地に道標を設置する。

 古くから開けた河内長野には、南北に走る高野街道や岩湧海道、東西に走る西国巡礼の 街道や大沢街道などの歴史的な街道が走り、そこには百余基の道標が残されている。
 特に高野街道は、この付近で東西の高野街道が合流し、高野山へと向かう。街道は河内 鋳物師(いもじ)が移り住んだ上田町、宿駅のあった三日市町を経て、南北朝時代に関が 設けられた岩瀬、天見、見坂から紀見峠を越えて紀伊国に入った。
 街道沿いの三日市宿には本陣格を有した大きな旅籠「油屋」があった。そこは幕末「天誅組」 の志士達が、討幕を唱えて大和五條代官所討入り前に集結した地として有名である。

 この場所は、旧長野村に属し河内鋳物師の流れを汲む吹屋吉年邸の一角であり、前面を 高野街道が通る歴史的に意義のあるところである。なお、道標は全国有数の文化財を保有 し、現在も歴史的に由緒ある多数の神社仏閣が現存する河内長野に相応しく、弥生時代 の「銅鐸」と寺院の「梵鐘」よりイメージして設計された。

 
吉年(よどし)邸の左手に、長野神社がある。
吉年(よどし)邸の左手に、長野神社がある
 
長野神社の由緒。
長野神社の由緒
 
 

 当神社の創建については詳らかではないが現在の本殿は天文20年(1551年)頃の造営である。
 正徳年間(1715年)頃迄は『木屋堂の宮(こやどうのみや)』と称せられ、又『牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)』と伝われたものを明治元年(1868年)に『長野神社』と改号されたものである。

 
 
長野神社の本殿。
長野神社の本殿
 
高野街道に戻り、土塀の間を抜け右下に下る。
土塀の間を抜け、右下に下る
 
崩れ落ちそうな土塀の下に道標がある。
崩れ落ちそうな土塀の下に道標がある
 
右下に下る。
右下に下る
 
坂道を下ると、それぞれの民家の軒先には「杉玉」と「高野街道」と書かれた行燈(あんどん)が飾られている。
坂道を下ると、それぞれの民家の軒先には「杉玉」と灯篭がある


 酒林(さかばやし)
 酒造りには特別の神様が居ます。奈良の大三輪神社です。杉の葉を束ねた大きな玉を作ります。これを杉玉とか酒箒(さけほうき)とも言います。一般的には酒林と言い店先に吊るします。江戸時代には毎年新しい杉の葉で新酒が出来る頃に酒林を造りました。
 杉は常緑樹で有り、一年中青い葉が得られます。杉には殺菌作用が在る等の理由から、昔から造り酒屋では杉を便利に使ってきました、酒を貯蔵する桶や樽は杉で造られています



酒蔵通り。
酒蔵通り
 
天野酒醸造元:西條合資会社旧店舗主屋。左側に大きな酒樽が置かれている。
西條合資会社旧店舗主屋
 
西條合資会社旧店舗主屋・土蔵の案内板。
西條合資会社旧店舗主屋・土蔵の案内板
 
向かいにある、享保三年(1718年)創醸の酒蔵「天野酒」。
享保三年(1718年)創醸の酒蔵、「天野酒」
 
店の入り口横には、「塩サイダー」や「ゆずサイダー」更には「あまざけサイダー」までが置いてある。
店の入り口横には、「塩サイダー」や「ゆずサイダー」更には「あまざけサイダー」までが置いてある
 
高野街道の絶品カレーパン:季節料理 三佳屋(みよしや)。店主の似顔絵が描かれている。
高野街道の絶品カレーパン:季節料理 三佳屋
 
三佳屋の正面。
高野街道の絶品カレーパン:季節料理 三佳屋
 
三佳屋の営業時間。ランチ:平日(木曜日は休み)は予約のみ。土日祝は11:30~15:00。ディナー:予約のみ。
三佳屋の営業時間
 
三佳屋の前を左折すると、石川に架かる舊西條橋(きゅうさいじょうばし)に出る。
三佳屋の前を左折すると、石川に架かる舊西條橋(きゅうさいじょうばし)に出る
 
舊西條橋(きゅうさいじょうばし)を渡ると、ゲキサカが待っている。
舊西條橋(きゅうさいじょうばし)を渡ると、ゲキサカが待っている
 
国道371号線を渡る手前に、「史跡 烏帽子形城跡」の標識がある。
国道371号線を渡る手前に、「史跡 烏帽子形城跡」の標識がある
 
 
 
3. 喜多町の高野街道
 
国道371号線に出る。ここから先が、喜多町になる。
国道371号線に出る
 
国道371号線を渡りたいが、交通量が多くてなかなか渡れない。
国道371号線を渡りたいが、交通量が多くてなかなか渡れない
 
国道371号線を渡ると、高野街道「別久坂」と呼ばれるゲキサカが待っていた。
国道371号線を渡ると、「別久坂」のゲキサカが待っていた
 
高野街道「大日寺」。
高野街道「大日寺」
 
烏帽子形古墳の下辺りを行く。
烏帽子形古墳の下辺りを行く
 
「烏帽子形八幡神社前休憩所」に到着。
「烏帽子形八幡神社前休憩所」に到着
 
「烏帽子形城跡」と「烏帽子形八幡神社」。
「烏帽子形城跡」と「烏帽子形八幡神社」
 
「烏帽子形八幡神社」参道。
「烏帽子形八幡神社」参道
 
「烏帽子形城跡」案内板。
「烏帽子形城跡」
 
「烏帽子形八幡神社」に登ってみる。
「烏帽子形八幡神社」に登ってみる
 
「烏帽子形八幡神社」。
「烏帽子形八幡神社」
 
「烏帽子形八幡神社」本殿。
「烏帽子形八幡神社」本殿
 
「烏帽子形八幡神社本殿」の案内板。
「烏帽子形八幡神社本殿」の案内板
 
神社から参道を眺めると、麓まで一直線に続いている。
神社から参道を眺めると、麓まで一直線に続いている
 
 

 烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)
 烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城があった。楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したのが当社の始まりと伝えられる。

 
高野街道を外れて、烏帽子形山の左手に登ると、烏帽子形八幡神社へ車で行ける参道がある。
高野街道を外れて、烏帽子形公園の左手に登ると、烏帽子形八幡神社へ車で行ける参道がある
 
 

 烏帽子形城跡
 標高182mの烏帽子形山の頂上部に烏帽子形城跡があります。金剛葛城山地からのびる丘陵の先端にあり、北に広がる平地を見渡し、東側を天見川、西側を石川が流れ、烏帽子形山の北側で天見川と石川が合流する為、三方を川に囲まれた天然の要害の地にあると言えます。また、城の東側を高野街道、南側を和泉路が通り交通の要所にもありとても重要な場所に城が築かれていたことがわかります。

 
更に上に上がると、烏帽子形城跡に登れる入り口がある。
更に上に上がると、烏帽子形城跡に登れる入り口がある
 
 
高野街道には、この案内板が埋め込まれている。
高野街道には、この案内板が埋め込まれている
 
金刀比羅講。
金刀比羅講
 
高野街道「増福寺」。
高野街道「増福寺」
 
高野街道「田中家鋳物工房跡」「畠山比左媼之碑(はたけやまひさおうなのひ)」。
高野街道「田中家鋳物工房跡」「畠山比左媼之碑(はたけやまひさおうなのひ)」
 
この後、国道371号線を跨いだ地点で高野街道探訪を終わりにし、南海高野線沿いを河内長野に引き返す。
 
 
ロードバイクコースを少し外れた道を、ゆっくりとポタリングすれば歴史的に由緒ある多数の名所・旧跡の発見がある・・・と、年老いて思う。
 
 
高野街道のつづき:
三日市~天見まで。
高野街道での紀見峠。

以上。
(2020.06.08)

 

 

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