高野山へと続く 高野街道 (河内長野市街)
27-101 河内長野経由コース
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平安遷都後の延暦15年(796)に紀見峠越えの新しい道が開かれその後、弘仁7年(816)には、空海が高野山を開いたので、この街道はますます重要性を増し沿道の村々は発展しました。
高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(1603~1867)には大変賑わいました。また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。
西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわい全盛期をむかえました。明治35年(1902)堺市草尾の辻に大阪府が建立した道標に「西高野街道」と刻んでいるのをみても、この道の繁栄ぶりを伝えています。
現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したものです。
河内長野市商工会は創立50周年を記念し、高野街道の「にぎわい・まち並み再生」の 一助とならんことを願い、この地に道標を設置する。
古くから開けた河内長野には、南北に走る高野街道や岩湧海道、東西に走る西国巡礼の 街道や大沢街道などの歴史的な街道が走り、そこには百余基の道標が残されている。
特に高野街道は、この付近で東西の高野街道が合流し、高野山へと向かう。街道は河内 鋳物師(いもじ)が移り住んだ上田町、宿駅のあった三日市町を経て、南北朝時代に関が 設けられた岩瀬、天見、見坂から紀見峠を越えて紀伊国に入った。
街道沿いの三日市宿には本陣格を有した大きな旅籠「油屋」があった。そこは幕末「天誅組」 の志士達が、討幕を唱えて大和五條代官所討入り前に集結した地として有名である。
この場所は、旧長野村に属し河内鋳物師の流れを汲む吹屋吉年邸の一角であり、前面を 高野街道が通る歴史的に意義のあるところである。なお、道標は全国有数の文化財を保有 し、現在も歴史的に由緒ある多数の神社仏閣が現存する河内長野に相応しく、弥生時代 の「銅鐸」と寺院の「梵鐘」よりイメージして設計された。
当神社の創建については詳らかではないが現在の本殿は天文20年(1551年)頃の造営である。
正徳年間(1715年)頃迄は『木屋堂の宮(こやどうのみや)』と称せられ、又『牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)』と伝われたものを明治元年(1868年)に『長野神社』と改号されたものである。
酒林(さかばやし)
酒造りには特別の神様が居ます。奈良の大三輪神社です。杉の葉を束ねた大きな玉を作ります。これを杉玉とか酒箒(さけほうき)とも言います。一般的には酒林と言い店先に吊るします。江戸時代には毎年新しい杉の葉で新酒が出来る頃に酒林を造りました。
杉は常緑樹で有り、一年中青い葉が得られます。杉には殺菌作用が在る等の理由から、昔から造り酒屋では杉を便利に使ってきました、酒を貯蔵する桶や樽は杉で造られています
烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)
烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城があった。楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したのが当社の始まりと伝えられる。
烏帽子形城跡
標高182mの烏帽子形山の頂上部に烏帽子形城跡があります。金剛葛城山地からのびる丘陵の先端にあり、北に広がる平地を見渡し、東側を天見川、西側を石川が流れ、烏帽子形山の北側で天見川と石川が合流する為、三方を川に囲まれた天然の要害の地にあると言えます。また、城の東側を高野街道、南側を和泉路が通り交通の要所にもありとても重要な場所に城が築かれていたことがわかります。
以上。
(2020.06.08)
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