大阪府のサイクリングコース
27-045 久宝寺寺内町 ポタリング 約12㎞
27-045 久宝寺寺内町 ポタリング 約12㎞
富田林寺内町、大ケ塚寺内町(だいがつか じないまち)と、近くに寺内町がある。浄土真宗の勢力が強い近畿には多いらしい。久宝寺も寺内町だと知り出かける。
久宝寺地内町の中核:顕聖寺。
コース地図
関西線『志紀駅』辺りから、長瀬川の横に続く自転車道で "ゆっくり" と久宝寺寺内町まで走った。
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10Km程度の距離なので、ミニベロでゆっくりと走ることにした。
長瀬川
大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。八尾市に入ってすぐの八尾市二俣(新田ゼラチンがあるところ)で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。
大阪府柏原市上市で大和川から分かれ柏原市内を北流。八尾市に入ってすぐの八尾市二俣(新田ゼラチンがあるところ)で玉串川が右方向に分かれ、長瀬川は向きをやや北西に変えて八尾市内を流れる。
志紀のR170号線高架下あたりから、八尾方面に向かっての長瀬川。
久宝寺の地名のはじまり
この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていた。なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれていた。
この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていた。なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれていた。
寺内町
寺院の周囲に町屋が建てられ、町家の外側を濠と土居(土塁)で囲まれ、町全体が広い意味での寺院の境内であるとの考えで寺内町と呼ばれた。
一般的には浄土真宗寺院を中核とするもので、浄土真宗の勢力が強い近畿、北陸、東海地方で数多く作られ、20余りが知られている。
寺院の周囲に町屋が建てられ、町家の外側を濠と土居(土塁)で囲まれ、町全体が広い意味での寺院の境内であるとの考えで寺内町と呼ばれた。
一般的には浄土真宗寺院を中核とするもので、浄土真宗の勢力が強い近畿、北陸、東海地方で数多く作られ、20余りが知られている。
顕証寺(けんしょうじ) ・・・ 石碑の内容
古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺があった。 文明二年(一四七〇)蓮如上人がここに布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は基盤の目のようになっていた。 このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。 顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。
古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞聖人の高第信願房法心の建てた慈願寺があった。 文明二年(一四七〇)蓮如上人がここに布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土屏をめぐらし、街路は基盤の目のようになっていた。 このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。 顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。
許麻神社
1100年以前より存在していた神社(「延喜式」神名帳より)で、江戸時代から「久宝寺の牛頭(ごず))天王」と呼ばれている。許麻神社周辺の若江郡巨麻荘には渡来系民族「大狛連(おおこまのむらじ)が支配する集団が多く住み、祖霊として祭祀したのが社名の由来。また、聖徳太子が創建した「久宝寺」境内の観音院が復興され、後に神社の宮寺となった。
1100年以前より存在していた神社(「延喜式」神名帳より)で、江戸時代から「久宝寺の牛頭(ごず))天王」と呼ばれている。許麻神社周辺の若江郡巨麻荘には渡来系民族「大狛連(おおこまのむらじ)が支配する集団が多く住み、祖霊として祭祀したのが社名の由来。また、聖徳太子が創建した「久宝寺」境内の観音院が復興され、後に神社の宮寺となった。
久宝寺城址 ・・・ 石碑の内容
久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四日・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。
満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に『城土居』の地名を残している。
久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。満貞は畠山満基の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。麟角堂を創建し又毎年七月十四日・五日は城内で精霊祭を催し、領民は五日間盆踊りをしたと言う。
満貞の嫡子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。城址は寺内町西北の出隅に『城土居』の地名を残している。
久宝寺寺内町の歴史的価値
蓮如上人が布教に訪れた際に、「帰する者市の如し」の例え通り多くの民衆が帰依し、畠山一族と共に明応年間(1492~1501年)に西証寺、後の顕証寺を建立した。この久宝寺御坊顕証寺を中心に、畿内随一の環濠集落(自衛都市)として久宝寺寺内町が誕生し、久宝寺寺内町は交通の要所であり、経済的後背地があったため、中・南河内の門徒集団を束ねる拠点として多くの門徒衆が集まり住むと共に、商工業者も集まり活発な商業活動が展開された。
室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけだが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されており、歴史的価値が注目されている。
蓮如上人が布教に訪れた際に、「帰する者市の如し」の例え通り多くの民衆が帰依し、畠山一族と共に明応年間(1492~1501年)に西証寺、後の顕証寺を建立した。この久宝寺御坊顕証寺を中心に、畿内随一の環濠集落(自衛都市)として久宝寺寺内町が誕生し、久宝寺寺内町は交通の要所であり、経済的後背地があったため、中・南河内の門徒集団を束ねる拠点として多くの門徒衆が集まり住むと共に、商工業者も集まり活発な商業活動が展開された。
室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけだが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されており、歴史的価値が注目されている。
これで、八尾市のほとんどが浄土真宗西本願寺派であることの理由が分かった。
以上。
(2017.05.21)
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