大阪府のサイクリングコース
27-103_G1-13 近つ飛鳥博物館 約 24㎞
27-103_G1-13 近つ飛鳥博物館 約 24㎞
向春の1日 、暖かく澄み渡った空だったので、いつものコースをただ走るだけでなく脇道にそれて、磯長谷(しながだに)にある古墳群と、近つ飛鳥博物館を巡ってきた。
コース地図
石川に懸かる『臥龍橋』を、起点・終点とするコース。
【南河内グリーンロード】の起点となる駒ヶ谷北から入り、
【道の駅 近つ飛鳥の里・太子】から脇道にそれて古墳群を散策した後、
【近つ飛鳥博物館】を訪れ【近つ飛鳥風土記の丘】を抜けて、
中世の自衛村落【大ケ塚寺内町(だいがつか じないまち)】を巡る。
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磯長谷(しながだに)古墳群(大阪府南河内郡太子町)
日本書紀によると,西暦619年難波から飛鳥の都に通じる大きな道が造られたという。 現在「竹内街道」と呼ばれる官道である。 二上山の西麓,「竹内街道」が通過する,難波に向って開いた谷が磯長谷(しながだに)である。 ここ一帯は現・羽曳野市に残る地名 “飛鳥” に因んで「近つ飛鳥」と呼ばれることがある。 太子町の隣り,河南町東山に「近つ飛鳥博物館」がある。
日本書紀によると,西暦619年難波から飛鳥の都に通じる大きな道が造られたという。 現在「竹内街道」と呼ばれる官道である。 二上山の西麓,「竹内街道」が通過する,難波に向って開いた谷が磯長谷(しながだに)である。 ここ一帯は現・羽曳野市に残る地名 “飛鳥” に因んで「近つ飛鳥」と呼ばれることがある。 太子町の隣り,河南町東山に「近つ飛鳥博物館」がある。
近つ飛鳥とは
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載があります。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。この「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道-竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっています。
また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれています。
なお、平安時代に編纂された「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという記載もあり、「近つ飛鳥」の地域は、国際色豊な地域であったことを今に伝えています。
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載があります。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものです。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。この「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道-竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっています。
また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれています。
なお、平安時代に編纂された「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという記載もあり、「近つ飛鳥」の地域は、国際色豊な地域であったことを今に伝えています。
竹内街道歴史資料館
街道脇にたたずむ館内では、最古の国道とも呼ばれる竹内街道と太子町の関わりが一目でわかるように展示されており、ここへ訪れた人々は往古の街道へタイムスリップすることができます。
街道脇にたたずむ館内では、最古の国道とも呼ばれる竹内街道と太子町の関わりが一目でわかるように展示されており、ここへ訪れた人々は往古の街道へタイムスリップすることができます。
孝德天皇:第36代天皇
在位期間:645年 - 654年(飛鳥時代:592年-710年)
大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)
在位期間:645年 - 654年(飛鳥時代:592年-710年)
大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)
二子塚古墳
二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵上に築造された古墳である。墳形は双方形という特異なもので、北東-南西方向に一辺約25メートルの方墳2基が並列して連接される。古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀後半頃(または7世紀中頃/7世紀前半頃)の築造と推定される。双方墳という特異な形式は、合葬が一般化する終末期当時の風習を受けて生み出されたと推測される。被葬者は明らかでないが、第33代推古天皇(628年崩御)・竹田皇子(薨去年不詳)の真の合葬陵墓とする伝承がある。
二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵上に築造された古墳である。墳形は双方形という特異なもので、北東-南西方向に一辺約25メートルの方墳2基が並列して連接される。古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀後半頃(または7世紀中頃/7世紀前半頃)の築造と推定される。双方墳という特異な形式は、合葬が一般化する終末期当時の風習を受けて生み出されたと推測される。被葬者は明らかでないが、第33代推古天皇(628年崩御)・竹田皇子(薨去年不詳)の真の合葬陵墓とする伝承がある。
推古天皇:第33代天皇
在位期間:593年 - 628年(飛鳥時代:592年-710年)
磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)
在位期間:593年 - 628年(飛鳥時代:592年-710年)
磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)
推古天皇陵からの眺め。
葉室公園
葉室石塚、釜戸塚、葉室塚の3基の大古墳に囲まれた歴史公園。
万鏡
二上山の山ふところにいだかれた太子町は、古来より近飛鳥とよばれ、難波と飛鳥の都を結ぶ竹内街道に沿い大陸の文化、情報の拠点として栄えました。
豊かな緑と歴史につつまれたこの地に万葉人のおおらかさをこの万(よろず)を写す鏡に託しつつ、左右に太古のいぶきと未来へのいぶきを交互に配しての大顔面に謳歌し自然環境に調和したモニュメントを大阪芸術大学講師の壺井勘也氏のデザインにより建立しました。
葉室石塚、釜戸塚、葉室塚の3基の大古墳に囲まれた歴史公園。
万鏡
二上山の山ふところにいだかれた太子町は、古来より近飛鳥とよばれ、難波と飛鳥の都を結ぶ竹内街道に沿い大陸の文化、情報の拠点として栄えました。
豊かな緑と歴史につつまれたこの地に万葉人のおおらかさをこの万(よろず)を写す鏡に託しつつ、左右に太古のいぶきと未来へのいぶきを交互に配しての大顔面に謳歌し自然環境に調和したモニュメントを大阪芸術大学講師の壺井勘也氏のデザインにより建立しました。
敏達天皇:第30代天皇
在位期間:572年 - 585年(古墳時代)
河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
在位期間:572年 - 585年(古墳時代)
河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
大阪府立近つ飛鳥博物館:安藤忠雄氏の代表作である【平成の古墳】。
近つ飛鳥博物館付近に点在する5つの陵墓が「梅鉢御陵」と呼ばれることにちなんで、「近つ飛鳥を梅いっぱいに」をスローガンに、博物館周辺に梅を植樹する活動が実施されている。「うめまつり」開催期間中は、展示室への入館が無料。
寺内町の形成は、永禄11年(1568年)に織田信長が河内に入り、根来衆が敗退した後、村人が自衛のために久宝寺顕証寺に依頼し、根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕証寺の通寺としたことにはじまる。
境内がなんとも良いにおいがするので観回して見ると、山門の横に黄色い梅=蠟梅 (ろうばい)が咲いていた。
お腹が空いたので、このまま帰らず、富田林寺内町に行ってみることに。
この後、石川サイクリングロードを走って帰宅。(走行距離:45km)
「湧き水食パン」(¥280 )は、美味い!!。
以上。
(2018.02.27)
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