27-053 くろまろ散策 約 19㎞
その滝畑ダムには、専ら旧170号線から向かうルートか、もしくは、府道218号線からのルートを使っていたが、もう一つ、高野街道から烏帽子形城跡の坂道を通って、くろまろの郷から向かうルートがあることを知り、「くろまろ」とは?について、全く知識がなかったので散策してみることにした。
1.旧170号線から向かうルート。
2.府道218号:河内長野かつらぎ線からのルート。
が基本であるが、2の府道218号を使うルートの変形として、
3.烏帽子形城跡の坂道を通って、くろまろの郷から向かうルート
がある。
国道170号上原交差点付近から、高向小学校周辺にかけて高向遺跡が存在しています。遺跡の調査から、石器時代から中世にかけて人々が暮らした跡が見つかっており、高向は古くから栄えていたようです。
高向は錦部郡に属し高向庄とも言われていました。高向の地名は古い記録にもあり、731年に記された「住吉大社神代記」にも登場。記録によれば、石川錦織許呂という渡来人が預かった山の所在地に、天野とともに高向の名が記されています。
この高向の地を古くから本拠地としていたのは高向氏と言われています。高向氏は応神天皇の時代に、中国から阿知使主(あちのおみ)と共に日本に帰化した七姓漢人の一つと言われています。
高向神社は、この高向氏が祖神を祭るために創建したのではないかと言われています。
高向氏の中で最もよく知られている人物が、高向玄理(たかむこのくろまろ)。高向玄理は、推古天皇の時代、聖徳太子に選ばれ隋へ留学。留学中に隋が滅び、唐が建国されるという波乱をくぐり抜け、30年間中国で学び続けた人物です。
高向神社のすぐ近くにある「奥河内 くろまろの郷」のゆるキャラ「くろまろくん」は、この高向玄理がモデルとなっています。
②.住吉神社
③.高向神社
④.奥河内 くろまろの郷
塚穴古墳(つかあなこふん)
塚穴古墳は横穴式の石室を持つ古墳です。しかし、この石室は古墳時代に造られたものが、そのまま残っているわけではありません。昭和61年に市教育委員会によって行われた調査で、この石室が近世に壊され再度組み直されたものであることがわかりました。石室の石材ををよく見るとその頃につけられた、石を割るためのクサビの痕を見ることができます。
平成8年には、同じく市教育委員会によって石室内部の詳しい調査が行われました。石室内部に堆積していた土砂を取り除くと、床面に穴を掘って埋められている甕が4基見つかりました。これらの甕のうち3基には人の火葬骨が納められていました。
内部に堆積していた土砂の中からは、五輪塔や宝篋印塔などの石造物が多く出土し、土器や陶磁器に混じって、永楽通宝や寛永通宝などの銅銭も出土しました。石造物に刻まれていた年号と寛永通宝から、これらの遺物は江戸時代のものと考えられます。
これらの調査結果から塚穴古墳石室は江戸時代に組み直されたあと、内部を墓地として使っていたものと考えられます。
地元の伝承には大阪城築城の際に古墳の石材を運ぼうとしたところ、何らかの事情により元の場所に戻した、というものがあります。
河内長野市上原財産区 平成9年7月
住吉神社
当神社は、旧小山田村・下里村・天野山・与通(現小山田町、下里町、天野町)、及び周辺地域が氏地です。
御祭神は、表筒男命【うわつつのおのみこと】・中筒男命【なかつつのおのみこと】・底筒男命【そこつつのおのみこと】・息長足姫命【おきながたらしひめのみこと】(神宮皇后)・武内宿禰【たけのうちのすくね】です。
毎年10月12日、御祭礼に続いて馬駆神事を行っています。
この神事は、西暦252年神功皇后御征韓祝賀のために、裸馬の競走を催したこに始まります。神馬を先頭に、氏子がそれぞれ奉納した馬の手綱を取り、参拝者の見守る中、馬場300mをかけ回る勇壮な神事です。また、本殿は神功皇后が建立、自ら神主となって住吉三神をお祀りされました。その後、文化10年(西暦1813年)流造に建て替えられ、江戸時代後期の特色をよく伝えています。
なお、馬駆神事は、平成5年より体育の日(10月第二月曜日)に行っています。
くろまろ とは
高向玄理(たかむこのくろまろ)は飛鳥時代に、日本初の国費留学生の一人として小野妹子に従い遣隋使として随に渡りました。 その後32年に及ぶ留学を終え帰国すると、大化の改新後の新政府の国博士として任じられ、任那・新羅と言った現在の朝鮮半島にあった国家の外交を任され中大兄皇子らとともに新しい政治体制の確立に活躍しました。 その後、今度は遣唐使として再び大陸に渡りましたが、再度日本の地を踏むこと無く長安にて客死しました。 河内長野市の高向地区が玄理の出生地とされ、河内長野ゆかりの偉人として昨今注目を集めています。
ゆるキャラ:くろまろくん(所属:河内長野市)
高向玄理(たかむこのくろまろ)
現在の河内長野市高向(たこう)出身の高向玄理(たかむこのくろまろ)にちなんだ「河内長野市生涯学習推進マスコット」です!
高向玄理は遣隋使として中国に渡り、帰国後、律令国家の建設に大きく貢献しました。
高向神社
高向・日野地区を氏地とするこの神社は、素盞嗚尊を祀っている。
毎年10月10日の例大祭の幕は正午の宮入をもって切って落とされる。
ところせましと観衆の集う境内に猿田彦の練を先頭に、こども獅子舞、日野獅子舞、氏子地の地車が勇壮に宮入を行う姿は圧巻である。本殿(市指定文化財)は切妻平入で珍しく、向拝の向唐破風(屋根)正面柱間三間で、内陣の仕切だけが五間という例は数少ない。棟札から慶長13年(1608)の建立であることが分かる。また所蔵の多数の絵馬のうち高向神社祭礼風景を描いた文久3年(1863)の「高向神社祭礼絵馬」(市指定文化財)は郷土の民俗資料美術史料として価値の高いものである。
奥河内 くろまろの郷
「奥河内くろまろの郷」は、地産地消の推進や情報発信など、新たな街の魅力を高める新たな拠点としてオープンしました。
河内長野市を中心とした大阪南東部の豊かな自然と、多くの緑やきれいな水に恵まれた山麓エリア「奥河内」。都会に近い、けれど喧騒とかけ離れた穏やかな佇まいが、”ちかくて、ふかい奥河内”です。
また、この高向地区は、608年に日本初の国費留学生に選ばれ隋(中国)に渡り、帰国後、国博士に任命され活躍した「高向玄理(たかむこのくろまろ)」の出身地でもあります。
皆さんの投票により決定した「奥河内くろまろの郷」の愛称には、自然と歴史文化豊かな地を愛する人々の思いが込められています。
パン:ウィンナーパン、黒豆パン、オニキチ、北海道バターしょうゆコーン。オニキチとしょうゆコーンが、メチャウマ。
トマトジュース。
かき氷:ぶどうと梨。梨の氷は綿菓子に近い感覚で、ねっとりした氷は、
初食感。それぞれ、¥480。
高向玄理は、聖徳太子の時代に日本初の国費留学生の一人に選ばれ、随に渡りました。
随、さらに唐の時代の中国の制度を勉強し、留学期間はなんと32年にも及びました。
帰国後、玄理は国博士に任命され、中大兄皇子らとともに新しい政治体制を整えていきました。また中国や朝鮮半島との外交を任されるなど、飛鳥時代の中央政界で大活躍しました。
「道の駅 奥河内くろまろの郷」のある、ここ高向の地が「玄理のふるさと」と考えられています。
この「高向玄理公顕彰碑」は彼の功績を讃え、中国西安とこの地に建立されました。
【大阪府立花の文化園】
以上。
(2020.09.21)
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