大阪府のサイクリングコース
27-029 古市古墳群・大ケ塚・源氏三代の墓 約32㎞
主祭神:応神天皇
応神天皇の諡[おくりな]が、誉田天皇[ほむたのすめらみこと]でした。
放生橋(ほうじようばし)
応神天皇を祀る誉田八幡宮の本殿から応神天皇陵に向かう参道を横切って流れる放生川には、放生橋と呼ばれる石の反橋が架けられています。
橋の本体は長さ5.8m、幅2.5m、高さ4.8mで、3本の橋脚の上に橋桁を渡して、幅30㎝、厚さ12㎝程の花崗岩製の橋板を並べ、その上には装飾をもつ束石を置いて高さ70㎝の欄干が組まれています。両端には擬宝珠(ねぎの花に似た装飾)を付けた柱が立てられ、ㇵの字形に開いた袖高欄が設けられます。
大きな反りをもつことに特徴があり、木造の橋の構造を応用して造られた石橋と考えられます。橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、その後、何度かの修理が行われています。
9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、本殿からこの橋を渡って応神天皇陵へ渡御する神事が厳かに執り行われます(現在は脇の平橋を渡ります)。
応神天皇を主祭神とする譽田八幡宮と、応神天皇陵との関係を象徴する放生橋は、歴史的にも重要な遺構といえます。
譽田八幡宮は応神天皇(第15代 譽田別尊:ほむたわけのみこと)、仲哀天皇(第14代)、神功皇后を主祭神とし、永享5年(1433)に足利義教(室町幕府第6代将軍)が奉納した「譽田宗廟縁起絵巻」には、欽明天皇(第29代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています。
鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として、将軍家をはじめとする武士の信仰をあつめ、社殿の造営や宝物の奉納がおこなわれましたが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火にかかることもありました。
その後、豊臣秀吉から社領の寄進を受け、豊臣秀頼が片桐且元に命じて社殿の再建をおこないました。江戸時代になってからは、幕府による保護のもとに社殿の再建と整備がすすめられました。
享和元年(1801)の「河内名所図会」や天保9年(1838)の古図には、本社や摂社、神宮寺の堂宇など多くの建物が並び、参詣の人々が訪れるようすが描かれています。
源頼朝の寄進と伝えられる塵地螺鈿金銅装神輿(国宝)や、譽田丸山古墳から発見された金銅製透彫鞍金具(国宝)、「譽田宗廟縁起絵巻」(重要文化財)、「神功皇后縁起絵巻」(重要文化財)など、多くの貴重な文化財を社宝としています。
誉田林古戦場址
誉田八幡宮の付近は、南北朝期から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり本だ八幡宮『社前の盟約』が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。
以上。
(2018.05.21)
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