大阪府のサイクリングコース
27-029 古市古墳群・大ケ塚・源氏三代の墓 約32㎞
27-029 古市古墳群・大ケ塚・源氏三代の墓 約32㎞
大坂の東南部、藤井寺市から羽曳野市にかけての、いわゆる『河内』には多くの古墳群=天皇陵がある。2013年にもこのコースを走行したが、世界文化遺産への登録を目指すことで脚光を浴びるようになったので、この機にもう一度と思い、出かけた。
これだけ多くの古墳群を、歩いて回るには ”シンドイ” が、自転車であれば余裕でもう少し距離が欲しい。そこで、大ケ塚と源氏三代の墓を付け加えてみると程よい距離のコースになった。
コース地図
新大和橋を起点・終点に、古市古墳群を巡った後、大ケ塚へ行き、その後引き返して源氏三代の墓を巡るコース。約32Km。
以下、このコースの詳細。
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古墳とは。
土を高く盛り上げた墳丘を持つ墓を『古墳』といい、3世紀後半から6世紀後半の間、日本列島で盛んに作られた。墳丘は、周りの土を掘って積み上げて作られ、斜面には石が敷きつめられた。掘られた部分は周りより低くなり濠になった。
古市古墳群は、ほとんどが前方後円墳で、上から見ると鍵穴の形をしている。
古市古墳群は、ほとんどが前方後円墳で、上から見ると鍵穴の形をしている。
現在、殆んどの古墳が、多くの住宅や建物に囲まれており、うっそうと繁った墳丘は見えるが、正面入り口がどこにあるのかを探すのにおおいに手間取った。
①.第19代天皇・允恭天皇陵(いんぎょうてんのうりょう)
市野山古墳。
恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。
墳丘長:230メートル。
前方後円墳。
墳丘長:230メートル。
前方後円墳。
②.仲姫命(なかつひめのみこと)仲津山陵
仲津山古墳。
応神天皇の皇后:仲姫(なかつひめ)皇后。
墳丘長:290メートル。・・・古市古墳群で2番目に大きな古墳。
前方後円墳。
墳丘長:290メートル。・・・古市古墳群で2番目に大きな古墳。
前方後円墳。
古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳。
墳丘長:150メートル。
前方後円墳。
前方後円墳。
③.誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
誉田八幡宮がある羽曳野市の木は「たちばな(橘)」。
奈良時代には、羽曳野市地域を中心として、橘が多く植えられていたらしい。
奈良時代には、羽曳野市地域を中心として、橘が多く植えられていたらしい。
④.第15代天皇:応神天皇陵(おうじんてんのう)
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)。
惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)
墳丘長:425メートル。・・・古市古墳群では1番大きな古墳。
前方後円墳。
墳丘長:425メートル。・・・古市古墳群では1番大きな古墳。
前方後円墳。
放生橋。
放生川に架かる花崗岩の反橋で、鎌倉時代に造られたと伝えられている。、通常は立入禁止だが、毎年9月15日の誉田八幡宮例祭の夜には、神様をお乗せした鳳輦(ほうれん:天皇の乗り物)が人々に担がれてこの橋をお渡り、誉田八幡宮から応神天皇陵の濠のほとりへと渡御し、そこで祝詞奏上や神楽奉納などの神事が行われる。
③.誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)境内
誉田八幡宮。
欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を称している。八幡神【やはたのかみ、はちまんしん:誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる】が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。
誉田林古戦場跡。
誉田八幡宮の付近は、南北朝期から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
⑤.応神天皇陵陪冢
陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢とも)
主人の死に従って葬られた近親,従臣の墳墓をさすが,一般には,大型の古墳の周辺にある小型の古墳をいう。
主人の死に従って葬られた近親,従臣の墳墓をさすが,一般には,大型の古墳の周辺にある小型の古墳をいう。
墓山古墳(はかやまこふん)。
墳丘長:225メートル。
前方後円墳。
前方後円墳。
浄元寺山古墳 (じょうがんじやまこふん)
浄元寺山古墳。
墳丘一辺の長さ:67メートル。
方墳。
方墳。
⑥.第14代天皇:仲哀天皇陵(ちゅうあいてんのう)
岡ミサンザイ古墳。
惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。
墳丘長:245メートル。
前方後円墳。
墳丘長:245メートル。
前方後円墳。
野々上埴輪窯跡
⑦.第24代天皇:仁賢天皇陵(にんけんてんのう)
野中ボケ山古墳。
埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)。
墳丘長:122メートル。
前方後円墳。
墳丘長:122メートル。
前方後円墳。
⑧.白鳥陵(はくちょうりょう、しらとりのみささぎ)
軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)。別称「前の山古墳」。
第12代景行天皇皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵。
墳丘長:200メートル。
前方後円墳。
墳丘長:200メートル。
前方後円墳。
近鉄南大阪線の古市(ふるいち)駅の東側出口から徒歩すぐの所に白鳥神社がある。この白鳥神社は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭神としている。日本書紀では日本武尊と書かれているが、古事記では倭建命と記されている。
⑨.第22代天皇:清寧(せいねい)天皇陵
白髪山古墳(しらがやまこふん)。
河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)
墳丘長:115メートル。
前方後円墳。
墳丘長:115メートル。
前方後円墳。
⑩.第27代天皇:安閑(あんかん)天皇陵
高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)。
古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)。
墳丘長:122メートル。
前方後円墳。
墳丘長:122メートル。
前方後円墳。
竹ノ内街道:羽曳野市の白鳥交差点(=国道170号交点)が起点
大ケ塚
寺内町の形成は、永禄11年(1568年)に織田信長が河内に入り、根来衆が敗退した後、村人が自衛のために久宝寺顕証寺に依頼し、根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕証寺の通寺としたことにはじまる。
源氏三代の墓:羽曳野市通法寺
河内源氏のかっての菩提寺であった通法寺跡を中心に、源 頼信→頼義→義家、三代の墓が点在している。
通法寺跡。
長久4年(1043年)、源頼義によって建てられた寺。頼義が猟の途中、山中で拾った仏像を本尊として安置したのがはじまりという。その後、河内源氏の菩提寺となったが、南北朝時代に兵火にかかり焼失。元禄13年(1700年)、徳川幕府により再建されたが、明治初期に廃寺になった。境内には頼義の墓や礎石、鐘楼、山門などが残る。
源 頼義。
源頼義は、頼信の嫡男。
1028年(長元元年)の平忠常の乱で活躍し、平直方から鎌倉の地を寄進され東国支配の拠点とした。
1051年(永承5年)から始まった前九年の役では、石清水八幡宮に祈願して戦功をあげることができたことから、凱旋後、石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮を創建。
1028年(長元元年)の平忠常の乱で活躍し、平直方から鎌倉の地を寄進され東国支配の拠点とした。
1051年(永承5年)から始まった前九年の役では、石清水八幡宮に祈願して戦功をあげることができたことから、凱旋後、石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮を創建。
壺井八幡宮
清泉壺井。
平安時代前九年の役(1051-1063)のとき、源頼義(みなもとのよりよし)の軍が飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれている。
平定を完了して凱旋する際、冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯(こうろほう)の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となった。(河内名所図絵より)
平定を完了して凱旋する際、冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯(こうろほう)の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となった。(河内名所図絵より)
壺井八幡宮。
鎌倉幕府の創始者源頼朝が、八幡太郎源義家公の4代の孫であり、室町将軍家足利氏、さらに徳川将軍家も義家公の流れである。この義家公の祖父頼信公が壺井に館を構えたのが寛仁4年(1020)で、頼信・頼義・義家の3代にわたって壺井に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
源頼義が、河内源氏の氏寺・通法寺の北側で、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。
源頼義が、河内源氏の氏寺・通法寺の北側で、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。
以上。
(2018.05.21)
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