関ケ原古戦場 岐阜県不破郡関ヶ原町

ロードバイクで辿った 名所・旧跡
関ケ原古戦場 
21-001 関ヶ原・垂井サイクリングコース
 
 

 ここが最大級の激戦が繰り広げられた地
笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。ここには大きな石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗があり、休憩所もあります。1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変します。これによって、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。この地で激戦が繰り広げられていたのかと思うと、現在はのどかなこの風景も全く見え方が変わってきます。

 
 
関ケ原の戦い 決戦地
関ケ原の戦い 決戦地。
 
関ケ原古戦場は、この辺り一帯に広がっており、歩いて回るには、距離がありすぎる。車で散策するには、道が狭い。ロードバイクで巡るのが、自由がきいて一番良い。
 

 

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コース地図
 
21-001 関ヶ原・垂井サイクリングコース 約32km のコース地図と「関ケ原古戦場」の場所。

 
コースのポイントと標高差
 
21-001 関ヶ原・垂井サイクリングコース 約32km。
 
関ヶ原・垂井サイクリングコース
 
 
 
 
「国道365号 & 薩摩カイコウズ街道」から、関ケ原合戦の決戦地に向かう入り口。
ウォーランドから、関ケ原合戦決戦地に向かう
 
 

 薩摩カイコウズ街道について
岐阜・鹿児島姉妹県盟約20周年を記念し、平成3年に整備されました。 「薩摩カイコウズ街道」と名付けられたこの花街道は、主要地方道南濃関ヶ原線を中心として、当市から関ヶ原までの約35Kmにわたって、鹿児島県の木「カイコウズ」が植えられています。

 
 
 
1. 島左近陣跡
 
島左近陣跡。この上に、「笹尾山 石田三成陣跡」がある。
島左近陣跡
 
島左近陣跡。
島左近陣跡
 
島左近陣地。
島左近(清興)は、「治部少(じぶのしょう:石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの智将で、三成は自らの俸禄の半分を与えたとの逸話が残る。
関ヶ原の戦い前日には、杭瀬川の戦いで東軍の中村一栄(なかむらかずひで)らの軍勢を破った。
当日はここ笹尾山に布陣し、攻め寄せる黒田長政や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せたが、長政の家臣、菅六之助(菅正利)の射撃で負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれる。
 
島左近陣跡。竹矢来と馬防柵。
島左近陣跡
 
島左近陣跡。
島左近陣跡
 
島左近陣跡。
島左近陣跡
 
この上に、「笹尾山 石田三成陣跡」がある。
この上に、「笹尾山 石田三成陣跡」がある
 
「笹尾山 石田三成陣跡」の標識。
「笹尾山 石田三成陣跡」の標識
 
島左近陣跡。
笹尾山 石田三成陣跡
 
 
 
2. 関ケ原合戦
 
関ケ原合戦のあらまし。
関ケ原合戦のあらまし
 
関ケ原の戦い。

 西暦1600年(慶長五年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。
豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年六月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ。八月会津攻めから引き返した家康は、九月一日江戸を発ち、十四日には美濃国赤坂に着陣した。この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方豊臣家への義を重んじた三成は八月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽十四日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前七時頃には家康は関ヶ原の桃配山(ももくばりやま)に陣取った。
・・・・・
天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五家の所領を大きく削ったという。その後大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百年の太平の基礎を築いたのであった。

 
 
 
3. 関ケ原の戦い 決戦地
 
関ケ原の戦い 決戦地。
関ケ原の戦い 決戦地
 
関ケ原の戦い 決戦地。
関ケ原の戦い 決戦地関ケ原の戦い 決戦地
 
関ケ原の戦い 決戦地。
関ケ原の戦い 決戦地
 
関ケ原の戦い 決戦地。
ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。
 
関ケ原の戦い 決戦地。
関ケ原の戦い 決戦地関ケ原の戦い 決戦地
 
関ケ原の戦い 決戦地。
関ケ原の戦い 決戦地
 
 
 
4. 島津義弘陣跡
 
島津義弘陣跡。
島津義弘陣跡
 
 
 
5. 関ケ原の戦い 開戦地
 
関ケ原の戦い 開戦地。
関ケ原の戦い 開戦地
 
関ケ原の戦い 開戦地。
関ケ原の戦い 開戦地
 
関ケ原の戦い 開戦地。
慶長5(1600)年、徳川家康は会津征伐のためとして東下(とうか)、それを好機と石田三成らは、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ大坂で挙兵し、関ヶ原の戦いの幕が開く。
・・・・・
雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時ごろ、東軍の松平忠吉と井伊直正が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。天下の覇権を賭けた国内最大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられこととなった。
 
各陣跡への道標が至る所にあり、判りやすい。
各陣跡への道標が、至る所にあり判りやすい
 
開戦地一帯を望む。
開戦地を望む
 
 
 
6. 不破の関跡
 
不破関資料館。
 不破関資料館
 
不破の関跡。
不破の関跡
 
不破の関跡。
不破の関跡
 
不破関。
関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者をチエックする目的であると考えがちだが、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられている。
 
 
 
7. 徳川家康最初陣跡
 
徳川家康 最初陣跡。桃配山(ももくばりやま)。 徳川家康最初陣跡
 
 
ロードバイクコース:

以上。
(2018.05.11)

 

 

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