関ケ原古戦場
21-001 関ヶ原・垂井サイクリングコース
ここが最大級の激戦が繰り広げられた地
笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。ここには大きな石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗があり、休憩所もあります。1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変します。これによって、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。この地で激戦が繰り広げられていたのかと思うと、現在はのどかなこの風景も全く見え方が変わってきます。
薩摩カイコウズ街道について
岐阜・鹿児島姉妹県盟約20周年を記念し、平成3年に整備されました。 「薩摩カイコウズ街道」と名付けられたこの花街道は、主要地方道南濃関ヶ原線を中心として、当市から関ヶ原までの約35Kmにわたって、鹿児島県の木「カイコウズ」が植えられています。
関ヶ原の戦い前日には、杭瀬川の戦いで東軍の中村一栄(なかむらかずひで)らの軍勢を破った。
当日はここ笹尾山に布陣し、攻め寄せる黒田長政や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せたが、長政の家臣、菅六之助(菅正利)の射撃で負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれる。
西暦1600年(慶長五年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。
豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年六月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ。八月会津攻めから引き返した家康は、九月一日江戸を発ち、十四日には美濃国赤坂に着陣した。この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方豊臣家への義を重んじた三成は八月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽十四日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前七時頃には家康は関ヶ原の桃配山(ももくばりやま)に陣取った。
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天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五家の所領を大きく削ったという。その後大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百年の太平の基礎を築いたのであった。
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雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時ごろ、東軍の松平忠吉と井伊直正が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。天下の覇権を賭けた国内最大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられこととなった。
以上。
(2018.05.11)
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