大阪府のサイクリングロード
27-033 阪和線長滝~紀州街道~大和川 約40km
中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力をはたらかさなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。 ・・・ 信長により、自由都市である堺は死滅するのだが ・・・しかしながら信長の意図はそれをはるかに超えたものであったであろう。かれは自治を縊り殺したかもしれないが、その国家構造では 堺の貿易を国家規模にまでひろげ、瀬戸内海を通じてゴヤを見、ローマを見、マドリッドを見ようとしていた。・・・ 司馬遼太郎
◆ちく満:宿院にある蕎麦屋
◆南宗寺:千利休・今井宗久・津田宗及ゆかりの禅寺。
◆船待神社:阪堺線「御陵前」から南へすぐの紀州街道沿いにある。
◆淡輪六郎兵衛重正の墓:団右衛門の僚友で樫井の戦闘で戦死した。
◆塙団右衛門の墓:討ち取った者の孫が、祖父が討った豪傑の墓を作る。
塙 団右衛門(ばん だんえもん)の五輪塔(ごりんとう)
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討ち死にした塙団右衛門直之の五輪塔である。団衛門は尾張国羽栗(はぐり)の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関が原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛(てつぎゅう)と号した。
大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大阪城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討ち死にした。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇(そうこ)、亀田大隈(おおすみ)あるいは八木信左衛門などの説があり一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠(いしどうろう)は八木信左衛門の孫が奉納した。
250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。
淡輪六郎兵衛(たんのわろくろうべえ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣、徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔である。
淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局(おごうのつぼね)で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大阪城を攻撃するよう命じた。
これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙 団右衛門(ばん だんえもん)とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。
岸和田城庭園(八陣の庭)
昭和28年に日本の昭和期における代表的な庭園研究家であり作庭家でもあった重森三玲(しげもりみれい)氏によって、設計、作庭された。本庭園は、上・中・下3段の基壇の中央に、大将の石組みを配置し、これを中心に8つの石組みが円形に配置されている。中国三国志の英雄として名高い諸葛孔明(しょかつこうめい)の「八陣法」をイメージしたもので、これらの石組みは地上からは、360度どの角度からも鑑賞することができるようになっている。また本庭園は、岸和田城天守閣の最上階の眼下にあって、その全容を眺望することができ、これまでの水平方向の視点だけでなく、垂直方向に展開する多様な視点を意図した本庭園は独創的で、国内外で注目されてきた。
安土桃山時代に豊臣秀吉の叔父小出秀政(ひでまさ)が5層の天守を築いた城。建武年間(1334~36年)頃、楠木正成(くすのきまさしげ)の一党和田高家(たかいえ)が現在の和田町あたりに築城したのが岸和田城の始まりといわれる。その後、和泉守護細川氏や守護代松浦氏など、城主がめまぐるしく交代した。その間に現在地に移されたが、天守閣もなく、館の周囲に塀や土塁をめぐらせただけの城館であった。1585年(天正13)、豊臣秀吉の叔父小出秀政が3万石で入封、秀政は本格的な築城にとりかかった。このとき5層の天守閣を築くなど、近世城郭として整備された。豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏3代を経て、1640年(寛永17)摂津高槻から岡部宣勝(のぶかつ)が入城、大規模な改修が行われた。以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって居城した。
室町末期の元亀年間(1570~73年)に田中遠江守重景が助松村に移住したのが初めとされ、江戸時代には大庄屋を勤め、徳川頼宣公が紀州に封じられてからは、紀伊徳川家の指定小休所として本陣を承っていた。
屋敷は、旧紀州街道沿いにあって、1町(約110m)四方の大きさで、江戸時代の豪農であったことがうかがえる。
戎(えびす)公園はイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に昭和22年(1947年)計画された。昭和24年(1949年)の公園開設が、フランシスコ・ザビエル来航400年であったことから、それを記念してザビエル公園という名称が使われるようになった。
環濠の歴史
『中世の自由都市・自治都市』の栄華を今に伝える土居川は、豊臣秀吉に一度埋められましたが、徳川時代初期に再びひと回り大きく掘り起こされました。この土居川と元禄時代に柏原から東へまっすぐに付替えられた大和川の運ぶ土砂によりできた土地に舟運のため掘られた運河(内川)が、今の環濠のまちを形づくっています。現在は、阪神高速道路堺線整備に伴い一部が埋められていますが、環濠で囲まれたまちは碁盤の目のように整備され、東西南北いずれからもまちに出入り出来るよう多くの橋が架けられていました。
高須神社(たかすじんじゃ)
慶長14年(1609)、鉄砲鍛冶芝辻理右衛門は、徳川家康から鉄張の大筒を作ることを命ぜられ、銃身一丈(約3m)、口径一尺三寸(約39cm)、砲弾重さ一貫五百匁(もんめ)(約 5.6kg)の大砲を作りました。これは、わが国で作られた最初の鉄製大型大砲でした。
その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣のときにも、1,000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615)高須の地(当神社付近)を賜りました。
芝辻家は、自らと堺の鉄砲鍛冶の繁栄を願って、この地に稲荷明神を勧請して当神社を建てました。豊受大神(とようけのおおかみ)・猿田彦命・大宮姫命・大物主命を祀っています。
以上。
(2015.05.06)
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