信貴山 朝護孫子寺 毘沙門天
信貴山 朝護孫子寺
山頂の空鉢護法堂 と 毘沙門天
1. 信貴山 朝護孫子寺 毘沙門天
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。
太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。
加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。
よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として、
「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。
また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。。
朝護孫子寺は、信貴山真言宗総本山で、本尊は毘沙門天。
「信貴山寺」とも称し、一般には「信貴山の毘沙門さん」として知られる。
神仏習合の名残から、境内には鳥居も並んでおり、初詣や「寅まつり」は多くの参拝客でにぎわう。
聖徳太子が、毘沙門天王から必勝の秘法を授かった日が、奇しくも「寅年、寅日、寅の刻」であった。
以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。
2. 信貴山マップと山頂の空鉢護法堂
信貴山城
標高四三三mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西五五〇m、南北七〇〇mに渡って一二〇以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
空堀の切り通し堀、土塁(どるい)、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓(たかやぐら)跡は著名で、中世末、織豊期(しょくほうき)直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。
信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地(ようしょうち)として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは、天智朝における高安城中心地域となり、中世には護良(もりなが)親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
天正五年(一五七七)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け五〇日間籠城、一〇月一〇日に落城。
その後、廃城となる。
「信貴山城」の説明板より
空鉢護法堂(一願成就)
命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事に由来します。山頂に竜王の祠を建てて以来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されております。山道は険しいものの、途中に信貴城址と行者の篭堂、星祭り本尊があり、また、空鉢護法堂(空鉢堂)からの眺めはたいへん素晴らしいものです。
3. 空鉢護法堂への参道(下りの様子)
信貴山城
信貴山城は東西 550m、南北 700m にわたって広がり、城域は雄嶽地区、雌嶽地区、北尾根地区の3つに分けることが出来る。急峻な切岸を中心に防御し、要所には土塁や石積み、堀、複雑な出入口などを設けた奈良県最大級の山城である。
天文5年(1536)、河内国の実力者であった木沢長政が信貴山城に入城した。その際、大規模な山城に改修され多くの家臣屋敷を抱え込む政治的な城郭となった。大和国において、軍事機能と政治機能を一体化した山城の先駆けであり、大和国の城郭に大きな影響を与えた極めて重要な城郭であった。
永禄2年(1559)に三好長慶の重臣、松永久秀が入城した。木沢期と同様に多くの家臣が集住する大和国支配の拠点として機能した。天正5年(1557)、織田信長と対立した久秀は信貴山城に籠城したが、織田勢に攻撃され自害した。雄嶽・雌嶽地区
標高 437m の信貴山頂を中心に展開する雄嶽地区は、急峻な切岸を防御の中心とした。特に、空鉢護法堂を取り囲む切岸は圧巻である。天正5年(1577)に松永久秀が籠城した際に、最後に攻め落とされた場所が雄嶽であり、天主があったという。なお、久秀が爆死したという説は、当時の資料では確認できない。
雌嶽地区は、雄嶽の南側に位置する標高 399m の尾根に広がる。雄嶽と同様に切岸防御の中心としていたが、南側に桝形状の出入口と石積みを見ることができる。史料によると、宮部与介や加藤某の屋敷があったという。「信貴山城」と「雄嶽・雌嶽地区」の説明板
4. 信貴山マップと「毘沙門天王」参拝ルート
以上。
(2021.02.07)
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