2021年6月2日
信貴山周辺ルートの詳細
高安山~信貴山 ルートの詳細
標高:485m 距離:約 3.7km
高安山~信貴山 ルート。
生駒縦走歩道のおおみち越え分岐にある「開運橋」から、高安山を経て信貴山に登り、信貴山朝護孫子寺に降りて大門池に架かる「開運橋」までのルート。ハイキング道にある「開運橋」と信貴山朝護孫子寺への参道にある「開運橋」の2つを、起点・終点とした多くの人が愉しんでいるコース。
頂上にある「信貴山城址」の石碑。標高: 437 m。
1. 高安山~信貴山 ルートの地図
生駒縦走歩道のおおみち越え分岐にある「開運橋」から、高安山を経て信貴山に登り、信貴山朝護孫子寺に降りて大門池に架かる「開運橋」までのルート。

道の状況は良く、多くのハイカーで賑わっており、誰でもが愉しめるルート。
以下、「高安山~信貴山ルート」の詳細を記録。
2. おおみち越え分岐の開運橋~高安山までの詳細
生駒縦走歩道の【おおみち越え分岐】にある開運橋。ここから北に向かう。

「高安山気象レーダー観測所」を過ぎると、左に入る道がある。

左に進入すると、正面の木の横に小さい看板が掛かっている。

近づいて見ると、「→ 高安山山頂」と記されている。

生駒縦走歩道に沿った、高安山山頂への道がある。

道は細いが、しっかりとしていて歩き易い。

程なく、高安山の山頂に到着する。

高安山山頂の三角点と、「点名 峰山 487.45M」と書かれた標識。いつ建てられたのか、つい最近まではなかった。

下り道の木にも、板が取り付けてあり「高安山 487.5m」と書かれたいる。右に降りるが、左の道は「神光寺道」か「しろ道」ルートだろうか?

3. 高安山~信貴山までの詳細
高安山を北に降りると、生駒縦走歩道が広くなった地点に倉庫があり、右に進む道がある。

「← 高安城倉庫址」の案内板が掛かっており、ここから「信貴山」に向かう。

「← 高安城倉庫址」方面への道。

「信貴山」に向かう道はハイカーが多く、踏み固められている。

「← 高安城倉庫址」方面への道の様子。

やがて、信貴生駒スカイラインに出る。

ポールに、道案内が書かれている。

信貴生駒スカイラインの様子。

信貴生駒スカイラインを横切って、ハイキング道に入る。

「信貴山朝護孫子寺」の道標と、「← 高安城倉庫址」の案内板が掛かっている。

道の左右が整備されており、広い。

信貴山方面への道の様子。

左側の木の幹に、「← 高安城倉庫址」の板が2つ掛けてある。

①.高安城倉庫址
「← 高安城倉庫址」に左折する。

「← 高安城倉庫址」への道は、杉木立の中を行く。

礎石が埋まっている、「 高安城倉庫址」の広場に出る。

「高安城倉庫址」の石柱。

「高安城址倉庫礎石群」と書かれた説明板。

高安城倉庫址礎石群
西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。
高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。
この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。
『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』
奥にも、礎石群の広場がある。

ここからは、奈良盆地を望むことが出来る。

「高安城址倉庫礎石群」を後にして、引き返す。

元の「信貴山方面への道」に戻る。

信貴山方面への道の様子。

道が、右に枝分かれした箇所がある。

行ってみると、奥にベンチがある。

座り心地の悪いベンチが1本ある。

ここは唯一の休憩ポイントで、且つ、ビューポイントになっている。二上山から大和葛城山、そして金剛山が見える。

南東部の眺望。

信貴山方面への道の様子。

道標があるが、「信貴山朝護孫子寺」と書かれた案内板が落下している。

右下に降りるカーブの左脇に、「←高安山を経て西信貴ケーブル」の道標がある。

信貴山方面への道の様子。

やがて、ベンチが見えてくる。

両サイドにベンチが2つづつ並んでいるが、朽ち果てていて座る気にはなれない。

マウンテンバイクの轍のように見えるが・・・。

信貴山方面への道は広く、且つ、なだらかなので歩きやすい。

土がえぐり取られた、急な降りの箇所がある。

分岐点に出る。道標は、右下方面が「弁財天の瀧」と「大門ダムサイト」になっている。

「弁財天の瀧」方面への道の様子。右にはボロボロになった「弁財天の滝をへて 信貴山門前」の道標があり、この上に小さく「石ダタミの坂道 すべりやすい 注意」と書かれたテープが貼られている。

左方面「← 松永屋敷跡 信貴山城址」の案内板が掛かっている。

信貴山方面に向かう。

杉木立の中、土が流され杉の根がむき出しになった道を行く。

信貴山方面への道の様子。このルートで、初めて倒木に遭遇する。

続いて、倒木が幾つかある。

木の枝をカットした面に、「左に降りて、右折 松永ヤシキ」と書かれた、何とも趣のある道標が掛けてある。

「左に降りて、右折 松永ヤシキ」への道の様子。距離がありそうだったので、今回はパス。

「立入屋敷(たてりやしき)」の説明板がある。

説明板を過ぎると、正面に舗装道路が現れ、右上「空鉢護法堂(くうはつごほうどう)」の道標がある。

②.松永屋敷跡
松永屋敷跡への分岐地点。

左折して、松永屋敷跡へ下る。

すぐに右折して、松永屋敷跡へ。

杉木立の中を行く。

やがて、金属製の階段が現れる。

階段を降りた地点に、「信貴山城」の案内板がある。

杉が林立しているが、平場(ひらば)=【「曲輪(くるわ)」「
削平地(さくへいち)」】と判る松永屋敷跡。

奥の方にも広がっており、相当広い。

「松永屋敷」の説明板。

杉木立が伐採されている場所がある。

「松永屋敷出入口」の説明板。

屋敷内を移動するための階段を戻る。

「松永久秀」の説明板。

屋敷跡にはベンチもある。

木製の武者像。

松永屋敷を南に降りる。

信貴フラワーロードから登ってくる、広い道に出る。

道路に面した所にある、「松永屋敷跡」の説明板。

信貴フラワーロードからの道を、右に登る。

右に「三丁石」がある。

元は舗装されていたのだろうが、現在はこのように荒れている。

コンクリートがはがれた道を登る。

やがて、高安山からの道に合流する。

信貴フラワーロードからの道より下を見ると、高安山からの道の「立入屋敷(たてりやしき)」の説明板が見える。

松永屋敷跡 2021.03.18
コンクリートの道を登る。

舗装がはがれ、石ころの道になる。

結構距離がある。ロードバイクで降りてくる人に出会ったが、信貴フラワーロードから登って来たようだ。

やっと、上が開けてくる。

広場に到着。コロナ禍の日曜日だからか、人が多い。

平日の広場の様子。

広場からの眺望。

まだ上がある。

「信貴山城址」の石碑が建っている。ここが頂上のようだが、この奥に、「空鉢護法堂(くうはつごほうどう)」がある。

「信貴山城」の説明板。

信貴山城
標高四三三mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西五五〇m、南北七〇〇mに渡って一二〇以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
空堀の切り通し堀、土塁(どるい)、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓(たかやぐら)跡は著名で、中世末、織豊期(しょくほうき)直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。
信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地(ようしょうち)として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは、天智朝における高安城中心地域となり、中世には護良(もりなが)親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
天正五年(一五七七)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け五〇日間籠城、一〇月一〇日に落城。
その後、廃城となる。
「信貴山城」の説明板より
4. 「朝護孫子寺」の境内を下る
これより、「朝護孫子寺」の境内を下る。
「高安山~信貴山 ルート」の状況。
道の状況は良く、多くのハイカーで賑わっており、誰でもが愉しめるルート。
以上。
(2021.02.07)
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