恩智越えハイキングコース 周辺の史跡

2023年10月22日

トレッキングで訪れたスポット
大阪府 八尾市
恩智越えハイキングコース 周辺の史跡

 
【恩智越え】コースを利用したハイキングの際に、少し脇道に逸れても押さえておきたい「史跡」やその歴史を纏めた。
 
恩智越え ハイキングコースの地図。
恩智越え ハイキングコースの地図
 
恩智越え ハイキングコース周辺の「史跡」マップ。
恩智越え ハイキングコース周辺の「史跡」マップ
 
 
コース地図
 
近鉄大阪線の恩智駅を起点に、恩智街道に出て【恩智神社】に至るまでの間にある史跡を巡るコース。
 
 
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1. 母木(おものぎ)邑

スタート地点の恩智駅。
スタート地点の恩智駅
 
恩智駅にある「恩智城跡の桜」と「恩智左近の墓」の案内板。
恩智駅にある「恩智城跡の桜」と「恩智左近の墓」の案内板
 
恩智駅史跡マップ。
恩智駅史跡マップ
 
恩智駅の南側で突き当り、恩智街道に入る。
恩智駅の南側で突き当り、恩智街道に入る
 
恩智川に架かる「母木橋」を渡る。
恩智川に架かる「母木橋」を渡る
 
母木橋とは気になる名前だが、この場所は昔は母木(おものぎ)という地名だったらしい。
神武天皇が孔舎衙の戦の際、大きな樹に隠れて難をのがれ、其の樹を指して「恩,母の如し」といったので,母木邑となったそうだ。尚、東大阪市に「孔舎衙(くさか)」と言う地名がある。

 恩智神社の神宮寺・感応院と十一面観音像

 飛鳥時代には聖徳太子が神武天皇の逸話が残る 母木の大樹に参拝に来ましたが既に木は枯れていました。 太子は母木の古株で十一面観音像を刻み、 感応院に安置したとの伝承があります。

引用元:恩智神社の参道

 

 神宮寺 感応院

 神宮寺とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂で、感応院は恩智神社の神宮寺。

 天川山感応院と称し真言宗高野山普門院末。古くは恩智神社の神宮寺として神社の境内にあった。
 本尊の十一面観音像は国の重要文化財また絹本着色不動明王像は府の重要美術品としてそれぞれ指定されており、慈雲尊者裏書の十六善神像など寺宝が多い。
 本堂の内庭は僧愛石の作と伝えられている。

 木造十一面観音像

 神宮寺感応院のある恩智地域が古くは母木(おものぎ) の里といわれていたことから、本像は俗に母木観音と呼ばれています。桧(ひのき)の一木造(いちぼくづくり)で、平安時代前期の作とされています。像高は108cmで、非常に端正(たんせい)な姿をしています。頭部には11の小さな化仏(けぶつ)をいただき、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、右手は、手を下げて手のひらを前に向け、人々のあらゆる願いに答える「与願印相(よがんいんそう)」を表しています。

引用元:八尾市観光データベース

 
聖徳太子も、物部守屋との戦いで樹に隠れて難をのがれた。

 大聖勝軍寺にある神妙椋樹(しんみょうりょうじゅ)

 聖徳太子の軍勢は、強力な兵力を誇る守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った。まさにそのとき椋の大木が真っ二つに割れ、その幹の空洞に身を潜めた太子は九死に一生を得た。

引用元:八尾は聖徳太子と物部守屋

 
近くに、母木保育園(おものぎ保育園)という認定こども園があり、母木邑の名が残る。
母木保育園(おものぎ保育園)という認定こども園があり、母木邑の名が残る
 
 
ここ「恩智」と言う地区の南側に、神宮寺(じんぐうじ)という地名の地域がある。
この地名は、楠木氏一族で当地の豪族だった「神宮寺氏」によるものと思われる。
 
 

2. 天王の森

恩智駅を出て東に向かって歩くと、「天王の森」と呼ばれる広場がある。
「天王の森」と呼ばれる広場がある
 
この広場の横に、「恩智旧石器時代遺跡」の石柱が建っている。
恩智旧石器時代遺跡
 
石柱の横にある、恩智旧石器時代遺跡 石板。
恩智旧石器時代遺跡 石板

 恩智石器時代遺蹟

 この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。
 今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。

                      八尾市教育委員会

引用元:八尾市観光データベース

 
天王の森の正面:左の石柱には「恩智神社」、右の石柱には「頓宮」と彫られており、ここは恩智神社のお旅所となっている。
恩智神社の頓宮(恩智神社のお旅所)
 
奥に祀られている「祇園社」。
奥に祀られている「祇園社」

 【祇園社】(ぎおんしゃ)

 南北朝の初期に恩智の豪族「恩智左近」(おんぢさこん)が居城を城山に造ったため、神社を下に見下すことになったので、神社を城より上の位置へ移動したといわれています。

 「天王の森」という地名は、牛頭天王を祀っていたことによります。
 牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と呼ばれ、祇園天神を祀る神社を祇園神社という。

 
8月1日の恩智神社の夏祭りには、この広場に神輿と布団太鼓が登場する。
恩智神社から伊勢音頭を唄いながら131段の階段を下り出て町内を練り歩き、夜になってこの広場で担ぎ回しが行われる。上下に揺らしながら「絶対に太鼓台を落とさない」という激しい担ぎ方は壮観である。
 
天王の森から南側の細い道を少し東に行くと「乾酒店」がある。
乾酒店
 
多種多様なお酒が小売もされており、一見入りにくいが、玄関のチャイムを鳴らして2Fに上がると購入できる。
 
 

3. 恩智神社の大鳥居

天王の森から山側に向かって歩くと、旧国道170号線=東高野街道との十字路にでる。
 
十字路の先に見える、恩智神社の大鳥居。
恩智神社の大鳥居
 
十字路の脇にある、東高野街道の道標 と 恩智街道の道標。
東高野街道 道標 と 恩智街道 道標
 
東高野街道・恩智街道 石板。
東高野街道・恩智街道 石板

 東高野街道・恩智街道

 東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。
 ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。
 その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。
 恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり
 なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。

引用元:八尾市観光データベース

 

 恩智街道

 恩智神社の西の大鳥居付近を起点に、府道柏村南本町線の東詰(柏村橋交差点)から曙川、 安中診療所前交差点(八尾街道交差)を通り、JR「八尾」駅までの街道でした。 信貴山や善光寺参りの人達でにぎわった参詣道でもありました。

引用元:xxxxx

 東高野街道

 京都から高野山参りをする東側の街道で、俗に京街道・高野道といわれました。伝えによると、 白河法皇が弘法大師300年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたといわれます。 京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、 南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となりました。

引用元:xxxxx

 
十字路を南(柏原・道明寺方面)に見た、東高野街道の様子。
十字路を南に見た、東高野街道の様子
 
十字路の角にある、茶吉庵
茶吉庵

 茶吉庵とは

 大阪府の東部、生駒山系高安山の麓=やまんねき=にある、築250年の旧河内木綿問屋であり地域の肝煎であった萩原家住宅のことです。河内木綿問屋の屋号は、茶屋吉兵衛。。

引用元:茶吉庵について

 
鳥居を潜った先にある、目ナシ地蔵。
目ナシ地蔵

 目ナシ地蔵

 街道交点の東に恩智神社石鳥居があり、そのすぐ東に自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。

引用元:八尾市観光データベース

 
目無し地蔵の奥・左側にある、来恩寺。
来恩寺

 来恩寺

 近鉄恩智駅より東へ三百メートル。恩智神社の鳥居を越えたところに、江戸時代中ごろからあった来福寺というお堂が明治三十九年に、現在地より東南、生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併しました。以来来恩寺と称するようになったという歴史的経緯を持つお寺です。
 来恩寺は融通念佛宗ですが、浄土宗と真言宗の二ヶ寺合併の名残として、本尊の脇にそれぞれ阿弥陀如来と弘法大師が祀られているのです。

引用元:第十一番 来恩寺

 
 

4. 恩智左近の墓

大鳥居の右にある小径からも行けるが、東高野街道を少し南に下ると、狭い急坂の脇に「恩智左近の墓」への登り口を示す石柱が建っている。
大鳥居の右にある小径からも行けるが、東高野街道を少し南に下ると、狭い急坂の脇に「恩智左近の墓」への登り口を示す石柱が建っている
 
狭い急坂を登った所に恩智左近の墓がある。
狭い急坂を登った所に恩智左近の墓がある
 
恩智左近の墓 石板。
恩智左近の墓 石板

 恩智左近の墓

 恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。
 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。

引用元:八尾市観光データベース

 
城徳寺。
城徳寺
 
 

5. 恩智城跡

東高野街道沿いにシュミイ地蔵がある。
 シュミイ地蔵
 
 シュミイ地蔵 石板。
 シュミイ地蔵 石板

 シュミイ地蔵

 名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。
 高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。

 良盛長盛道梁妙見也阿常助宗
 父道善宗恩道明為脩門
     道妙□阿妙法
 天文十三年甲辰八月時正
  河内国恩智□逆修一結衆
            敬白

      八尾市教育委員会

引用元:八尾市観光データベース

 
 シュミイ地蔵の横に急坂があり、ここを直登すると「恩智城址」に至る。
シュミイ地蔵の横に登り道があり、ここを直登すると「恩智城跡」に至る
 
恩智城址への登り口と、古い城址碑「昭和3年(1928)の建立」。上には、「赤レンガ造りの校門」が見える。
恩智城跡への登り口
 
旧恩智小学校にあった「赤レンガ造りの校門」が保存されている。
赤レンガ造りの校門
 
恩智城址の広場。桜の木が多く植えられており、今では桜の名所となっている。
恩智城跡の広場
 
恩智城址の石碑。
恩智城跡の石碑
 
恩智城は「楠公八臣」のひとりに数えられた恩智左近満一によって築かれた城です。左近は楠木正成に従って千早城の籠城戦や飯盛山城攻めにも参陣して活躍しましたが、1348年(貞和4年・正平3年)の「四条畷の戦い」で正成の嫡男である楠木正行とともに討死したと伝わります。
 
恩智城址 石板。
恩智城跡 石板

 恩智城址

 恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。
 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。
 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。

引用元:八尾市観光データベース

 
ここは旧恩智小学校(南高安小学校)の跡地で、「手洗石」も保存されている。
ここは旧恩智小学校(南高安小学校)の跡地で「手洗石」が保存されている
 
恩智城跡からの大阪平野の眺め。
恩智城跡からの大阪平野の眺め
 
城趾の下にある、恩智城趾公園。
恩智城趾公園
 
恩智城趾公園の上側には万葉植物園があり、万葉集に詠まれた草花や樹木を集めて、展示植物毎に歌と作者が記された説明碑が設置されている。
万葉植物園
 
 

6. 恩智神社

恩智城趾公園を出て恩智神社の参道に戻ると、マルゲン醤油がある。
マルゲン醤油
 
小売もしており、 モロキュウ用の「麦もろみ」 水炊きようの「ポン酢」が美味い。
小売もしており、 モロキュウ用の「もろみ」 水炊きようの「ポン酢」が美味い
 
恩智神社の参道。
恩智神社の参道
 
安養寺の参道との辻に道標が建てられていて、「左 毘沙門天王 安養寺」などと刻まれている。
安養寺の参道との辻に道標が建てられていて、「左 毘沙門天王 安養寺」などと刻まれている
 
恩智神社の社頭。
恩智神社入り口の石段。恩智神社に参拝してから登るのも良い
 
恩智神社。
 
 

以上。
(2023.01.16)

 
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5 豆知識

Posted by tacsan