恩智越えハイキングコース 周辺の史跡
大阪府 八尾市
恩智越えハイキングコース 周辺の史跡
1. 母木(おものぎ)邑
神武天皇が孔舎衙の戦の際、大きな樹に隠れて難をのがれ、其の樹を指して「恩,母の如し」といったので,母木邑となったそうだ。尚、東大阪市に「孔舎衙(くさか)」と言う地名がある。
恩智神社の神宮寺・感応院と十一面観音像
飛鳥時代には聖徳太子が神武天皇の逸話が残る 母木の大樹に参拝に来ましたが既に木は枯れていました。 太子は母木の古株で十一面観音像を刻み、 感応院に安置したとの伝承があります。
神宮寺 感応院
神宮寺とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂で、感応院は恩智神社の神宮寺。
天川山感応院と称し真言宗高野山普門院末。古くは恩智神社の神宮寺として神社の境内にあった。
本尊の十一面観音像は国の重要文化財また絹本着色不動明王像は府の重要美術品としてそれぞれ指定されており、慈雲尊者裏書の十六善神像など寺宝が多い。
本堂の内庭は僧愛石の作と伝えられている。木造十一面観音像
神宮寺感応院のある恩智地域が古くは母木(おものぎ) の里といわれていたことから、本像は俗に母木観音と呼ばれています。桧(ひのき)の一木造(いちぼくづくり)で、平安時代前期の作とされています。像高は108cmで、非常に端正(たんせい)な姿をしています。頭部には11の小さな化仏(けぶつ)をいただき、左手に水瓶(すいびょう)を持ち、右手は、手を下げて手のひらを前に向け、人々のあらゆる願いに答える「与願印相(よがんいんそう)」を表しています。
大聖勝軍寺にある神妙椋樹(しんみょうりょうじゅ)
聖徳太子の軍勢は、強力な兵力を誇る守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った。まさにそのとき椋の大木が真っ二つに割れ、その幹の空洞に身を潜めた太子は九死に一生を得た。
この地名は、楠木氏一族で当地の豪族だった「神宮寺氏」によるものと思われる。
2. 天王の森
恩智石器時代遺蹟
この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。
今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、またこの斜面から石鏃が露出した。八尾市教育委員会
【祇園社】(ぎおんしゃ)
南北朝の初期に恩智の豪族「恩智左近」(おんぢさこん)が居城を城山に造ったため、神社を下に見下すことになったので、神社を城より上の位置へ移動したといわれています。
「天王の森」という地名は、牛頭天王を祀っていたことによります。
牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神で、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」と呼ばれ、祇園天神を祀る神社を祇園神社という。
恩智神社から伊勢音頭を唄いながら131段の階段を下り出て町内を練り歩き、夜になってこの広場で担ぎ回しが行われる。上下に揺らしながら「絶対に太鼓台を落とさない」という激しい担ぎ方は壮観である。
3. 恩智神社の大鳥居
東高野街道・恩智街道
東高野街道は京都から高野山参りをする東側の街道で、この名がつけられているが、地元では京都への道ということから京街道と呼ばれてきた。
ここは、東高野街道と恩智街道の交点であり、二本の道標がある。
その一本は恩智の人達が建てたもので、文字、彫もよく この地の人達が旅人に親切であり、道路を大切にしていたことを感じる。
恩智街道はここから曙川を通って、国鉄八尾駅までの道である。明治二十二年大阪鉄道(国鉄関西本線)の八尾停車場が開設されると、この街道の通行者が多くなり
なかでも大阪からの信貴山参りの人達がこの道を利用したため、大正時代には荷車に加えて自動車が往来するほどにぎわった道である。
恩智街道
恩智神社の西の大鳥居付近を起点に、府道柏村南本町線の東詰(柏村橋交差点)から曙川、 安中診療所前交差点(八尾街道交差)を通り、JR「八尾」駅までの街道でした。 信貴山や善光寺参りの人達でにぎわった参詣道でもありました。
東高野街道
京都から高野山参りをする東側の街道で、俗に京街道・高野道といわれました。伝えによると、 白河法皇が弘法大師300年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたといわれます。 京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、 南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となりました。
茶吉庵とは
大阪府の東部、生駒山系高安山の麓=やまんねき=にある、築250年の旧河内木綿問屋であり地域の肝煎であった萩原家住宅のことです。河内木綿問屋の屋号は、茶屋吉兵衛。。
目ナシ地蔵
街道交点の東に恩智神社石鳥居があり、そのすぐ東に自然石のままの「目ナシ地蔵」がある。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。
来恩寺
近鉄恩智駅より東へ三百メートル。恩智神社の鳥居を越えたところに、江戸時代中ごろからあった来福寺というお堂が明治三十九年に、現在地より東南、生駒山系の中腹にあった恩覚寺と合併しました。以来来恩寺と称するようになったという歴史的経緯を持つお寺です。
来恩寺は融通念佛宗ですが、浄土宗と真言宗の二ヶ寺合併の名残として、本尊の脇にそれぞれ阿弥陀如来と弘法大師が祀られているのです。
4. 恩智左近の墓
恩智左近の墓
恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人である。
湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。
5. 恩智城跡
シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中日に建立したものである。
高さ一三六センチメートル、幅六七センチメートル材質は花崗岩である。像の左右に次の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗
父道善宗恩道明為脩門
道妙□阿妙法
天文十三年甲辰八月時正
河内国恩智□逆修一結衆
敬白八尾市教育委員会
恩智城址
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。
堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。
学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
6. 恩智神社
以上。
(2023.01.16)
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