~アラカンからのサイクルライフ~

「環濠自治都市・平野郷」界隈を散策して来た

大阪府のサイクリングコース
27-015 長居公園から平野郷 約 37㎞
 
大阪市内で、最も早く・どこよりも古く形成された町「平野郷」。近くに住んでいながら訪れたことのない、歴史が息ずく街がまだ残っていた。
 
南海平野線の線路跡が、少しだけ遊歩道(プロムナード)になっている。終着駅だった平野の駅前には、昔ながらの商店街が残っていた。
 
 
コース地図
 
大和川の堤防を下り、行基大橋から長居公園を経て平野郷に入り、久宝寺緑地を通り抜けて八尾まで戻り、長瀬川を遡って帰着。
以下に、平野郷の探索記録を掲載。
 

 

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スタート地点の、大和川河内橋北詰。
 
大和川の堤防を川下に向かって走り、行基大橋北詰で右折。
 
行基大橋北詰から、長居公園に向かう。
 
府道26号線、矢田3交差点。
 
長居公園東口に到着。
 
長居公園、南中央口。
 
長居公園、南中央口から西の方を望む。
 
長居公園、大阪市立自然史博物館前。
 
植物園入り口前。
 
ヤンマースタジアム長居。セレッソ大阪のホームスタジアム。
 
陸上競技場。
 
長居公園を北東口から出る。
 
鷹合一丁目交差点を右折。
 
平野を目指して走る。前方高架が近鉄大阪線針中野の駅。
 
湯里東を越えた辺り、平野を目指して走る。
 
国道479号流川2南を渡り、北に向かう。大阪教育大学附属高等学校平野校舎のグランド横。
 
地下鉄谷町線平野駅に到着。ここが平野郷探索の起点。
 
平野郷探索マップ。
 
平野郷
大阪市内で最も早くに形成された町で、東に大和、南に紀泉をひかえ、平安時代より交通の要衝として発展した。戦国時代には周囲に二重の堀をめぐらせた環濠都市であり、堺と並ぶ自治都市でもあった。町割りは、大阪夏の陣で消失後、元和2年(1616年)再整備され、現在に至る。地区内には、大念仏寺をはじめとした古刹が点在し、その間を縫うように戦災を免れた古い民家が随所に残る。現在は、住民による町おこしとして、「平野町ぐるみ博物館」運動が進められ、イベント等が行われている。
 
南港通、平野流町歩道橋。自転車屋さん博物館を探したが、見当たらなかった。
 
南港通から平野の町に入る。
 
国道479号に戻ってから、南海平野線跡の遊歩道に向かう入り口。
 
南海平野線跡の遊歩道入り口。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)。信号があったりする。
 
平野駅駅舎イメージ広場。八角形の照明塔屋根。
 
広場に掛かっている銘板。
 
平野線とモ205型電車
南海平野線は大正3年4月26日 今池‐平野間の開業以来、大阪市東南部の重要な足として地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺-八尾南間の開通により昭和55年11月28日、66年の歴史を閉じました。
モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので、通称<改造車>とよばれ平野線で活躍しました。
また、広場中央の照明塔屋根は八角形の欧風木造建築物として建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)の終点。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)の終点にある道標。
 
南海平野線跡の遊歩道(プロムナード)の終点前の商店街。
 
商店街にある『だるま珈琲』。ハンバーガーとコーヒーの店で、昼食にベーコンバーガーを頂いた。
 
だるま珈琲の店内。古民家カフェで、奥に中庭があるため明るく、ソファーに近い椅子で落ち着ける雰囲気のお店。
 
光永寺。
 
淨永寺。
 
大念佛寺山門。
 
大念佛寺。
 
大念佛寺。
 
大念佛寺(だいねんぶつじ)
融通念仏宗総本山。山号は、諸仏護念院大源山。比叡山の天台宗の僧の良忍が、大治2年(1127年)鳥羽上皇の勅願により開創した、日本最初の念仏道場である。本尊は十一尊天得如来(絵像)。「十一尊天得如来」とは融通念仏宗特有の呼称で、阿弥陀如来と十菩薩の絵像である。
 
大念佛寺。
 
内から見る山門。
 
大念佛寺の本堂は、大阪府下最大の木造建築である。
 
「万部おねり」
聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された融通念佛宗総本山大念佛寺最大の伝統行事の通称名。
聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具体的に表現した儀式であり、貞和五年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい。聖聚来迎の様相を実際にこの眼で見、また世の多くの人々にも見ていただきたいものだ」と中祖法明上人自ら行者となり、臨終不退、一念往生、上品上生を遂げるまでの法明上人の堅固な意思により始まったことを起源としています。
「阿弥陀経万部会」は江戸時代第四十九世尭海上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、極楽往生と檀信徒の先祖供養」を願いとしてはじめられました。
 
大念佛寺。
 
楽邦殿と鐘楼。
 
良忍上人略伝。
 
坂上廣野麿屋敷跡。
 
坂上廣野麿屋敷跡
平安朝の初め(800年頃)蝦夷との戦いに武功をたてた坂上田村麿の第2子廣野麿が、朝廷から杭全庄を賜わり、この地を領有した。廣野麿は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住し、天長5年(828年)3月9日に亡くなった。坂上家は以来、代々民部を名乗り、この地を領有し、人々から平野殿と呼ばれたが、地域の発達とともに子孫が広がり、のちに平野の七名家となった
 
麻呂/麿(まろ) :公家などが使用していた日本語の古い一人称
我・吾(われ・わ)
余・予(よ)
 
「平野」という地名
平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂の荘園があったことから、「平野」という地名は「広野」からの転訛によるといわれている。862年(貞観4年)には広野麻呂の子の坂上当道が八坂神社を勧請して杭全神社が創建されている。
 
広野麻呂の荘園はその後、摂関家の九条家を通じて宇治平等院へ寄進され、織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった。荘園は杭全荘と呼ばれていたが、鎌倉時代頃から平野荘とも別称された。
 
平野の七名家
1127年(大治2年)に大念仏寺が開基されると、門前町が形成されるようになった。戦国時代になると、町の周りに二重の濠と土居を巡らせ、13ヶ所の出入口には門と門番屋敷が設置された。なお、門の脇には地蔵堂も建てられ、12の地蔵堂が現存している。濠内は坂上氏の末裔と称する「平野七名家」による自治が行われるようになり、七名家が権力を有する以下の本郷7町に分かれていた。
馬場町(成安氏)
泥堂町(則光氏→黒瀬氏(井上氏))
市町(利国氏→土橋氏)
野堂町(末吉氏)
流町(利則氏→三上氏)
背戸口町(安国氏→辻葩氏)
西脇町(安宗氏→西村氏)
 
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)。渡来系氏族。
八坂神社→八坂氏の創建
清水寺(八坂神社の近所)→坂上田村麻呂の創建
清水坂(清水寺の近所)→犬神人(八坂神社の神人)の居住地
東湖八坂神社(とうこやさかじんじゃ)→坂上田村麻呂の創建
 
長宝寺。
 
長宝寺。
 
長宝寺。
 
本妙寺。
 
平野中央本通り商店街。
 
全興寺。
 
全興寺の横にある、駄菓子屋広場とおもろ庵。
 
摂州平野大絵図。
 
平野郷樋尻口門跡。
 
平野郷樋尻口門跡
戦国時代、平野は堺とならぶ自治都市であった。郷内の安全のため集落のまわりを濠で囲み(一般に「環濠集落」と呼ばれる)郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸口を使って行われた。それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、この樋之尻口門もその中のひとつである。少し東側の平野川に「樋之尻橋」の名が今もとどめられている。現在、13の木戸口はなくなったが、地蔵堂とその名称によってかつての位置を知ることができる。
 
平野公園。
 
平野の黄金水。
 
平野の黄金水
平野はもともと低湿な土地柄でそのため井戸水の水質が悪く、そのままでは飲用に耐えなかった。しかし、この井戸は良質の水に恵まれ、多くの住民に利用された。坂上廣野麿により荘園として開かれて以来上水道が普及するまでは、付近住民にとり貴重な飲料水であった。また、平野の酒造業にも利用されるなど自由都市平野郷の発展を支える大きな役割を果たした。
 
平野川。
 
杭全神社。
 
平野環濠跡。
 
平野環濠跡
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。
環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
 
杭全神社。
 
杭全神社
平安時代の初め貞観4年(862年)に坂上廣野麿の子当道が、素盞鳴尊を氏神として祀ったのが始まりといわれ、平野郷一円の守護神として信仰をあつめた。
第二殿第三殿は永正10年(1513年)造営の記録があり第一殿とともに重要文化財に指定されている。境内には、全国で唯一、連歌所が残っており、市の文化財に指定されている。また、大くすの木は、樹齢850年以上と伝えられ、府の天然記念物に指定されている。
毎年4月の御田植神事では、一年間の農作業の手順が猿楽の所作でユーモラスに表現され、7月の夏祭りでは氏地各町から出る九台の地車が勇壮に曳行される。
 
杭全神社。
 
杭全神社を後にして、JR関西本線の平野駅手前を右折。踏切を渡るとすぐ右折して直進。久宝寺緑地内に入る。
 
久宝寺緑地内にあるローソンで休憩。窓際に広い飲食スペースがあり、居心地が良い。スマホで羽生結弦選手のショートプログラム1位の知らせを受け取る。隣に座ったおじさんたちが、どうなったかを話題にしていたので教えてあげる。
 
近畿自動車を越えて八尾の市街地に入ってゆく。
 
常光寺。北側にある横門から入る。
 
常光寺(じょうこうじ)
大阪府八尾市本町にある 臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。 
 
常光寺鐘楼。
 
行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。南北朝の戦乱で焼失したが又五郎大夫藤原盛継が再興した。足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いた。大阪(坂)夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実検をし、今でも血天井として残されている。 寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。境内に大坂の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
 
山門脇にある大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑。
 
地蔵盆踊りは、毎年8月23・24日の2日間、夜7時から9時の間、流し節正調河内音頭による盆踊りが行われ、9時からは現代調の新河内音頭に変わり、11時まではにぎやかな唄と踊りとなっている。
常光寺に唄い継がれてきた「流し節」は、昔から地元の人が中心となり、音頭をとり踊られていたので、別名「西郷節」とも言われていた。
「流し節」というのは、口説きといって音頭の文句を続けていき、物語を流れるように語ることからその名が付いている。
 
常光寺山門。
 
常光寺の山門のすぐ脇にある KALAMA BEACH。マリン用品店だが、和歌山の尾崎から取り寄せている干物を売っていたので、ビールのあてに購入。
 
ファミリーロードから常光寺門前への通り。
 
八尾本町筋商店街:ファミリーロード。
 
ここから、長瀬川沿いに出て帰着。
 

以上。
(2018.02.16)

 

 

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