~アラカンからのサイクルライフ~

「菜の花忌」司馬遼太郎記念館に行ってきた

大阪府のサイクリングコース
27-046 司馬遼太郎記念館巡り 約 22㎞
 
司馬遼太郎の命日は、2月12日。その「菜の花忌」直前の 2月7日、記念館周辺の菜の花のつぼみ約800本が切られるという事件があった。この話を知った、鹿児島県指宿市や同市民が、10日までに急きょ計約1500本の菜の花を摘んで届けてくれたという。届いた菜の花は館内に飾られ、多くの来館者を楽しませている・・・ということで命日を2日過ぎた今日14日、暖かく天気の良い日だったので訪ねてみた。(13日は休館日だった。)
 
司馬遼太郎記念館
 
以下、司馬遼太郎記念館の菜の花の様子。
 
 

 

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コース地図
 
長瀬川沿いの側道を北上して小坂に行き、八戸ノ里から第二寝屋川・恩智川の川沿いを伝って帰える、水路コース。車が少ないので、自転車向きのコース。
 
出発地点の、JR志紀駅前。中央が長瀬川の側道。
 
JR八尾駅前の長瀬川。
 
八尾高校横の長瀬川。
 
八尾浜と久宝寺船着場跡の石碑。
 
石碑の内容:

 八尾浜と久宝寺船着場
長瀬川はもと大和川の本流で古くはおよそ二〇〇メートルの川幅があり、人と物資の運搬で川舟が往復した。 宝永一年(一七〇四)大和川の付け替え後は井路川となり、八尾と久宝寺の人々の共同出資で剣先船が人や米、木材などを京橋まで運び、年貢米の運送や、大阪、淀などへの往復でにぎわった。 こちらの八尾側の方を八尾浜むこうの久宝寺側を船着場とよび、ともに祭礼のときのお旅所であった。・・・八尾市教育委員会

 
八尾市本町4丁目4辺りの長瀬川側道。
 
丸亀製麺 八尾久宝寺店裏辺りの三協アルミ工場から見た、長瀬川。
 
 八尾市末広町1丁目辺りの桜並木。玉串川の桜より立派ではないか。桜の季節に、比較に訪れよう。
 
 
2018.03.28 桜
 
長瀬川の桜並木通り。
 
長瀬川の桜





 
 
中央環状線・近畿自動車道の藤美を越えたところで、振り返る。
 
近畿自動車道の藤美を越えたところの長瀬川。水が澄んでいて、流れも速く綺麗な川。
 
弥刀駅近くの金岡本通商店街入口。昔ながらの商店街が残っている。
 
金岡本通商店街近くの長瀬川。川の上に駐輪場が作られている。
 
真ん中を長瀬川が流れる、金岡公園。桜が多く、結構広い。
 
桜の金岡公園(2018.03.28)
 
長瀬駅前。ここで、近鉄大阪線を超える。
 
長瀬川の畔にある、樟徳館。樟蔭学園の創立者で,大阪・長堀で材木商を営んだ森平蔵の私邸。
 
樟徳館は、帝国キネマ長瀬撮影所(昭和5年に焼失)の跡地に建てられた。
 
樟徳館。
 
樟徳館(樟蔭学園)
高等女学校が狭き門になっている状況を打開するため、創立者(森平蔵)が私財を投じて私立樟蔭高等女学校を1917年に設立。
校名は楠木正成(楠公)ゆかりの地であることから「しょういん」とし、校章も「菊水」があしらわれている。
 
菱屋西(かごの屋菱屋西店横)の交差点。中央が長瀬川。
 
長瀬川を右にそれて、東大阪小阪本町に入る。
 
西側から、司馬遼太郎記念館に到着。
 
駐車場の奥に駐輪場あり。
 
付近の地図。
 
正面入り口。
 
司馬遼太郎記念館を東側から見た、入り口。
 
司馬遼太郎の自宅だったころの玄関。
 
司馬遼太郎の書斎。窓が開けられていて、書斎の中を窓越しに見ることができる。
 
書斎前には、一面に菜の花のプランターが飾られていた。
 
書斎前の、ヒューム管。
 
 

 司馬遼太郎と菜の花:2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」
司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きでした。『菜の花の沖』という長編小説があることにも由来します。
記念館の書斎の前には、直径1メートルほどのヒューム管があります。司馬遼太郎はここに菜の花を植え、春の開花を楽しみにしていました。このあたりは、小さいながら雑木林風の庭になっていて、今も同じようにボランティアの皆さんが菜の花を植え、来館者をお迎えしています。・・・ホームページより引用。

 
書斎のソファーが見える。
 
記念館の裏庭の入り口にある、『鉧(けら)』:粗製の鉄。踏鞴(たたら)製法により作られる。
 
銘板の内容。

 2014年3月に記念館友の会の交流ツアーで『街道をゆく 砂鉄のみち』をたどり、島根県奥出雲町の全面的なご協力で、たたら製鉄(日本古来の和鋼精錬法)を体験しました。友の会の皆さんが、それぞれに手伝ってできた鉧です。
 鉧は、木炭で1400度に高めた炉に入れた砂鉄が溶解してできた粗鋼。日本刀をつくるための玉鋼(たまはがね)がふくまれています。展示している2つの塊の合計は約 42 ㎏。

 
裏庭にある、花供養碑。
 
裏庭に、鹿児島から送られてきたであろう菜の花が。
 
記念館入り口。安藤忠雄さん設計のコンクリート打ちっ放しの建物。
 
ゆるやかな曲線を描く窓際に、菜の花が飾られている。
 
これが、鹿児島から送られてきた菜の花なのだろう。
 
記念に、缶バッジを買った。
『街道をゆく』をロードバイクで走り、
 
司馬遼太郎のライフワーク。
国内60,海外12の全72街道。
司馬さんが亡くなったのが、平成8年(1996年)。この年、1月に「濃尾参州記」の取材を終え、この執筆中2月に倒れ、帰らぬ人となった。「濃尾参州記」は未完の作であり、司馬さんの絶筆となった作品。
 
『峠』を上り、
 
「幕府は終わる」と知りながら、
武士道を守った河合継之助の生涯。
 
  
『坂の上の雲』に辿り着く。
 
日露戦争の勝利に至る、
勃興期の明治日本。
 
3つで、¥500。
 
 
館内撮影禁止。館内を後にして、外に出る。
 
菜の花の匂いが郷愁を誘う。
 
新しい庭らしい。
 
訪れた人の休憩場所。
 
近鉄奈良線を越えて、大阪商大の北側にある、キッチンニトロでイタリアンのランチにする。昼時は過ぎているにもかかわらず、ほぼ満席。美味しい店は流行る。サラダ、ピザ、ハラミ牛肉のシェアランチ、一人¥1,000-。
 
帰り道、第二寝屋川の畔にある木村重成の墓に立ち寄る。
 
木村重成の墓。
 
 

 木村重成の墓(きむらしげなりのはか)
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。
大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史跡として指定されている。

 
 
司馬遼太郎の根強い人気を目の当たりにするとともに、なぜか、昨今の職場を憂う気持ちが込み上げてきた。
このままだと、
「人間の言語能力、ひいては知性、感性、想像・創造力の衰退という深刻な事態」
を、招いてしまうのではないか。(上村館長の詞)
 
21世紀に生きる君たちへ
 
 
9歳の孫に読ませると、

命令口調が気になる、

と言う感想が返ってきた。
 
 
参考:

以上。
(2018.02.14)

 

 

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