~アラカンからのサイクルライフ~

街道をゆく『河内みち』高貴な山河を走る

街道をゆく『3-3. 河内みち』
大阪府のサイクリングロード
27-012 臥龍橋~南河内グリーンロード~石川サイクリングロード 約50km 
 
司馬さんが訪れた河内の寺は、殆どが南河内グリーンロード沿いにある。この、高貴な山河は、日常のロードバイクコース。
 
持尾展望台
 
 
コース地図
 
柏原南口の新大和橋からスタートし、南河内グリーンロードに入り河内道を辿った後、石川サイクリングロードを帰路にした。 
以下、『3-3. 河内みち』周辺のスポットを掲載。
 

 

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司馬さんの旅の時期 1972年頃
 
紀行テーマ・地点・歴史
 

 戦前の河内イメージは水門史観が神聖英雄としてかつぎ上げてその体系をつくりあげる根拠 とされた南朝の将楠木正成の聖地ということで出来上がっており、正成がそこに拠って坂東の 大群と戦った 金剛山、赤坂、千早城といった地名群はもはや単に地名というより 国家論的な抽象性すら帯びていた。                 ・・・ 司馬遼太郎

 
『古代にあっては王城の地』であった河内を巡る。
 ◆高貴寺:空海、慈雲ゆかりの寺。
 ◆弘川寺:西行終焉の地。
 ◆観心寺:楠正成が学んだ寺。
 ◆大ケ塚:中世の自衛村落。
 

 高貴寺ゆかりの空海・慈雲に思いを馳せ、西行のことを考えながら、弘川寺に向かう。楠木正成のことを思いつつ、観心寺を訪れ、大ヶ塚に出かけ、八朔の祭りを楽しむ。

 
 
コースのポイントと標高差
 
27-012 臥龍橋~南河内グリーンロード~石川サイクルロード 約50km。
 
このコースは、①.南河内グリーンロードがヒルクライムコースで、高貴寺への登りと弘川寺から上河内を抜ける道は相当にきついが、②.石川サイクリングロードは平坦で、信号もなく相当な速度で楽に走れる。
 
 
 
 
 
1. 叡福寺:推古天皇が聖徳太子の墓を守護するために建立した寺
 

磯長山(しながさん)叡福寺 2017.10.31。

磯長山(しながさん)叡福寺。

多宝塔。

聖徳太子御廟。

 
 
 
2. 大ケ塚:
 浄土真宗の寺院・顕証寺を中心に寺内町を形成
 

大ケ塚。

顕証寺。

顕証寺。

大ヶ塚八朔市
「八朔」とは、8月1日の事で、朝廷や幕府では重要な儀式が行われていた。一般には稲作の激しい労働も一通り終わってホット一息入れ、秋の豊作を期待する季節の行事で、通年は、9月の第1土曜と日曜で行われている。
 
 
 
3. 持尾展望台
 
展望台。
 
展望台からの眺め。
 
PLの塔。
 
2017.11.13 風もなく 気温18℃。
 
 
 
 
4. 高貴寺:
 空海が「香華の山」とよび、寺名の由来となった真言宗の寺
 
高貴寺。
 
高貴寺。
 
高貴寺。
 
高貴寺。
役行者の開基で真言宗金剛寺末の名刹。弘法大師空海も安居したといわれている。中世には寺運大いに栄え、後に元弘の変の兵火で一時衰えたが、安永年中、高僧慈雲尊者が復興。
 

 慈雲尊者(慈雲飲光)
 江戸時代中期から後期にかけて、南河内(現大阪府南河内郡河南町)の高貴寺には、 当時の仏教を代表する名だたる僧侶が入山していた。
慈雲飲光(1718~1804)は、真言、禅、梵語、儒学、神道などを広く学び、 釈迦仏道の原点に戻ることをめざした「正法律」を唱え、広く庶民に親しまれ大坂や京都で活躍した高僧。
慈雲尊者は人々の信仰に応えるため、様々な教えを記した個性あふれる墨蹟を残した。

 
 
 
5. 弘川寺:
 寄寓していた西行が「きさらぎの望月のころ」に没した真言宗の寺
 
弘川寺。
 
弘川寺の隅屋桜(すやざくら)。
 
弘川寺の隅屋桜(すやざくら)。
 
弘川寺の隅屋桜(すやざくら)。
 
「河内名所図会」などに「すや桜」「規桜(ぶんまわし)」として登場する紅枝垂桜。南朝の忠臣、弘川城主・隅屋与市が弘川寺にて奮戦し規桜の下で討死したという記述がある。規桜は絶えたが「すや桜」は今もその名をとどめている。
 
ねがはくは 花のもとにて 春死なむ 
その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ
西行の歌碑へ
 
西行の歌碑。
 
南河内サイクルラインの石川サイクル橋を渡って、少し南に下った処に、桜の木と西行の歌碑がある。
 
 
 
6. スイセンの丘
 
丘をおおいつくす、約5万本の水仙が咲き乱れる、スイセンの丘。
奉建塔周辺 (楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか から、徒歩3分)
1月初旬~2月中旬ぐらいまで。
 
 
スイセンの丘。
 
スイセンの丘。
 
 
 
7. 観心寺:楠木正成が学んだとされる真言宗の寺
 

 険阻な山の中にするどく切れこんだ渓があり、 山水をあつめて細川がときに滝のような勢いで流れている。 その細川が麓に達しようとするあたりに観心寺がある。・・・ 司馬遼太郎

 
観心寺。
 
観心寺。
 
観心寺。
 
 
 
8. 楠木 正成:鎌倉幕府を倒した河内ゲリラ隊の隊長
 
楠木 正成。
 

 楠木 正成
 正成は鎌倉幕府をたおした河内ゲリラ隊の隊長であり、さらに足利尊氏を首領とする武家勢力と戦って湊川で戦死した。王を尊び覇を賤しむという宋学という多分に形而上的な学問を身につけてそのイデオロギーに殉じたという意味では、日本史上最初のイデオロギストであったかもしれない。
・・・ 司馬遼太郎

 
 
 
9. 下赤坂城址:鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城
 
下赤坂城址入口。
 
下赤坂城址。
 
赤阪城跡(下赤坂城跡) 説明板の内容。

 国史赤阪城跡(下赤坂城跡)
 標高185.7m、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城です。この域は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたと言われています。
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山に逃れました。正成はこれに合わせてこの地で挙兵し、護良親王( もりながしんのう)も当地に身を寄せられたと伝えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は「太平記」に記述されています。しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。
その後、元弘2年(1332)、正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの城は落城しますが、千早城での籠城戦の間に鎌倉幕府は滅亡しました。
城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上位付近が主部(本丸)であったといわれています。

 
下赤坂城址。
 
下赤坂城址入口の棚田。
 
下赤坂城址の棚田。
 
日本の棚田百選。
 
 
 
10. 石川サイクリングロードを南から北へ
 
石川サイクリングロード。
 
石川サイクリングロード。
 
石川サイクリングロード。
 
参考:
 

以上。
(2009.06.14~2014.03.19)

 

 

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