~アラカンからのサイクルライフ~

街道をゆく『紀ノ川流域』を走る

街道をゆく『32-2. 紀ノ川流域』
和歌山県のサイクリングロード
30-002 岩出~根来寺~貴志駅~紀三井寺~雑賀崎~和歌山城~岩出
約67km
 
和歌山県を走る機会が少ないので、街道をゆくの『32-2. 紀ノ川流域』をベースに、猫の駅長で有名な和歌山電鐵の「貴志駅」を経由して和歌山市に行ってみることにした。
 
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コース地図
 
岩出市の紀ノ川の河川敷にある、大宮緑地総合運動公園に駐車し、起点・終点とした。
 

 

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司馬さんの旅の時期 1988年6月
 
紀行テーマ・地点・歴史
 
 

 根来寺は、もはや往時のようではない。その空閑としたところが、この広大な境内の 清らかさになっている。わずかに残った大門や堂塔、塔頭が、低い丘陵と松柏にかこまれて、 吹く風までが、ただごとではないのである。
         ・・・ 司馬遼太郎。

 
 
『紀の国』和歌山は、古くは「木の国」とも呼ばれた。
 ◆和歌山城:天正13年(1585)豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まり。
 ◆聖天宮法輪寺:和歌山城の鬼門除けの寺。
 ◆日前国懸神宮:紀伊国一の宮として古来から尊崇を集めた。
 ◆根来寺:新義真言宗総本山。
 
 

 根来という地名は、ネゴロという地理用語ではあるまいか。『峰をほどよくさがった南陽(みなみび)を受ける斜面』という地点を、ネゴロというのではあるまいか。 ・・・ 司馬遼太郎

 
 私の妻も、山のふもと辺りを『ネキ(根際・根来?)』と呼ぶが。
 
 
30-002 岩出~根来寺~貴志駅~紀三井寺~雑賀崎~和歌山城 約67km
 
司馬さんは、和歌山市内から根来寺を訪ねた。同じようなルートを辿るべく、岩出市を起点に、いったん和歌山に出て引き返すことにし、紀ノ川の河川敷にある大宮緑地総合運動公園に駐車し起点・終点とした。
緑の風が爽やかな貴志川の堤を走り、わかやま電鉄終点の貴志駅に行き、猫の駅長に会う。そのまま、貴志川線沿いに西進し紀三井寺に寄った後、
和歌の浦のカフェ&レストラン レシアンエラメールで昼食をとる。
その後、雑賀崎(さいかざき)を一周し和歌山城から紀伊風土紀の丘を経て、
紀ノ川の堤を通り帰着。(雑賀崎で、和歌山は廃れているなという印象を持つ)
 
 
コースのポイントと標高差
 
 
根来寺に至るまでが坂道だが、その他は気持ちよく走れるコース。
 
 
根来街道
 
根来街道。
 
◆根来街道。
大阪府泉南市樽井から和歌山県岩出市まで。
 
 
岩出町民俗資料館
 
岩出町民俗資料館。
 
 ◆岩出町民俗資料館。
根来寺をはじめ、岩出の歴史・文化・風土、人々の暮らしの変遷を紹介する資料館。
 
 
根来寺
 
根来寺。
 
 ◆根来寺。
覚鑁(かくばん)によって建立された新義真言宗総本山。大治元年に建立された根来寺は、室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石、僧兵数万となり、紀伊・和泉・河内に一大勢力を誇った。種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた根来寺、強大な武装勢力であった。
  
根来寺。
  
聖天池。
 
根来寺 大塔。
 
大伝法堂:根來寺の本堂。
 
 本尊の大日如来。脇仏は金剛薩埵(こんごうさった)、尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)。
 
吹く風までが、ただごとではないのである。 ? ? ? ? ? ?・・・ 司馬遼太郎。
 
 
紀ノ川から貴志川を経て、貴志駅に向かう
 
紀ノ川から貴志川へ。
 
貴志駅。
 
 猫の駅長。
 
貴志川線
 
◆貴志駅。
和歌山電鐵 貴志川線 猫のスーパー駅長「たま」で話題を呼んだ。
 
 
貴志川線沿いを紀三井寺に向かう
 
 和田川。
 
貴志川線。
 
 
紀三井寺
 
紀三井寺。
 
 ◆紀三井寺。
もと真言宗山階派に属したが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗る。
 
 紀三井寺から和歌の浦を望む。
 
 
和歌の浦
 
和歌の浦。
 
 ◆和歌の浦。
『万葉集』にも詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。
 
 三断橋と妹背山。
 
 片男波公園。
 
 左手がレシアンエラメール。ここで、昼食をとる。
 
 
塩竈神社
 
塩竈神社(しおがまじんじゃ)。後ろの山は、鏡山。
 
 ◆塩竈神社(しおがまじんじゃ)。
鹽竈神社は玉津島神社の祓所から神社になった。海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊(しおつちのおじ)は輿の窟(こしのいわや)という岩穴に鎮座する。
 
玉津島神社(たまつしまじんじゃ)。手前の橋は、不老橋。
 
 
紀州東照宮
 
紀州東照宮。
 
 ◆紀州東照宮。
徳川家康をまつった神社。
  
 

 紀州の雑賀(さいか)鉄砲衆
戦雲うずまく戦国末期、今の和歌山市に住んで、天下に並ぶもののない、火縄銃の使い手としておそれられた雇い兵の集団。織田信長とたたかった雑賀衆の頭領である孫市、その子である孫市郎が韓国に渡り、帰化して「沙也可(さやか)」と呼ばれ、将軍になった。その子孫が現在、数千人いるのだそうだ。紀州東照宮には沙也可顕彰碑まで建立されている。

 
 
雑賀崎
 
コート・ダジュール。
 
コート・ダジュール横より。
 
 スハネフ14-1。
 
◆雑賀崎:さいかざき。
奥和歌浦(おくわかうら)とも呼ばれる。このあたりに多くあったホテルが、殆んど閉館されている。コート・ダジュールも潰れていた。和歌山県の凋落ぶりが激しい。
 
番所庭園。
 
番所庭園。
 
◆番所庭園:ばんどこていえん。
「紀の国の 雑賀の浦に 出で見れば 海女の燈火 波の間ゆ見ゆ」藤原卿。
雑賀崎にある海洋眺望絶佳の景勝地。
 
 
和歌山県立博物館
 
和歌山県立博物館。
 
 ◆和歌山県立博物館。
和歌山の文化歴史に関する展示を行っている。
 
 
和歌山城
 
和歌山城。
 
 ◆和歌山城。
天正13年(1585)豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まり。徳川家康の第十男頼宣が入城して城郭の大改修を行ない、明治維新までの250年間、徳川御三家の居城として偉容を誇る。天正13年(1585)に紀州を平定した秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まり。 築城を担当したのは、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、 慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。その後、元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、 紀州55万5千石の城となる。
以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとなる。
  
 
聖天宮法輪寺
 
聖天宮法輪寺。
 
◆聖天宮法輪寺。
和歌山城の鬼門除けの寺。境内には「ぼけよけ地蔵」から恵比須神社、弘法大師像まで、様々な神仏が祀られる。
 
 
日前国懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)
 
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)。
 
 ◆日前国懸神宮:
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を天石窟(アマノイワヤ)から招き出すために、最初に鋳造された宝鏡が、紀伊国に鎮座する日前神のご神体として祀られている。
 
 
鳴神貝塚
 
鳴神貝塚。
 
 ◆鳴神貝塚。
縄文時代前期(約6500年前)から晩期(約3000年前)、さらに弥生時代まで人々が住み続けたことが遺物から推定されます。出土する貝が海の貝であることから、当時和歌山平野はまだ海が広がっており、ここ花山の麓は海岸線であったことが推定される。
 
 
紀伊風土紀の丘
 
紀伊風土紀の丘。
 
 ◆紀伊風土紀の丘。
国の特別史跡「岩橋(いわせ)千塚古墳群」の保全と公開を目的として1971年8月に開館した、考古・民俗資料を中心とした和歌山県立の博物館施設(登録博物館)。
 
紀の川沿いの自転車道を岩出に向かって帰る。
 
緑の風が爽やかな一日だった。
 

以上。
(2015.05.10)

 

 

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