~アラカンからのサイクルライフ~

東高野街道をロードバイクで辿る その1 岩清水八幡宮~清滝街道との交差点まで

大阪府のサイクリングコース
27-062 東高野街道をロードバイクで辿る その1
岩清水八幡宮~清滝街道との交差点まで 約 20㎞
 
東高野街道のスタート地点、京都府八幡市の「岩清水八幡宮」から、四條畷市の「清滝街道との交差点」までをロードバイクで辿り、街道の様子と旧跡を記録した。
 
「洞ケ峠茶屋」
「洞ケ峠茶屋」。
 

 

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東高野街道の全長と当コースの位置:その1
 
その1:京都府八幡市の「岩清水八幡宮」から四條畷市の「清滝街道との交差点」までの区間。

 
 
 
コース地図
 
京都府八幡市の「岩清水八幡宮」から四條畷市の「清滝街道との交差点」までの【27-062 東高野街道 その1 約 20㎞ 】コース地図。
 
 
 
 
 
1. 京都府八幡市
 
岩清水八幡宮周辺マップと東高野街道。
 
京阪電車「岩清水八幡宮駅」をスタート地点に、走行を開始する。
 
駅の南東角に、「東高野街道」の道標が建っている。
 
すぐに、放生川に架かる「全昌寺橋」に出会うが、ここは一旦直進する。
 
※:「大谷川」の安居橋の前後200mを、「放生川」と名前を変えている。
応神天皇陵(誉田八幡宮)の前を流れる川も「放生川」という。
 
先ずは、石清水八幡宮 の「一の鳥居」前迄行ってみる。
 
参考:
 
引き返して「全昌寺橋」を渡り、「飛行神社」に寄る。
 
「飛行神社」の門に掲げられている説明板。
 

 航空安全祈願
 飛行神社 縁起略記

鎮座 大正4年(1915)3月10日
主座祭神 饒速日命 天津神 古代の飛行神(中央社殿)
  祭神 航空殉難者諸神 (向かって右側社殿)
  祭神 薬祖神(向かって左側社殿)
  別社 常磐稲荷社

 当神社は明治24年(1891)4月29日に世界に誇るゴム動力プロペラ式飛行器の飛翔実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者の尊霊を慰めるべく崇め祀つた神社である。
 晩年自ら神職に就き昭和2年(1927)改修して朝夕航空安全祈願の奉仕をしたが、昭和11年(1936)に没した。
 昭和30年(1955)忠八の次男顕次郎が、再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、あまねく全世界の航空先覚者並びに遭難者の霊を迎え祀り、今日に至っている。現在の本殿拝殿及び資料館、集会所は、忠八の飛行原理発見百周年記念に際し、平成元年(1989)に全面改築されたものである。

 平成12年9月
  京都八幡市土井四十四
   宗教法人 飛行神社  

引用元:「飛行神社」説明板
 
 
飛行神社に入ると、いきなりドーンとガラスケースに入ったエンジンがある。航空自衛隊の主力戦闘機「F-104J」のものとの説明がある。
 
古代のギリシャ神殿を模した拝殿。
 
零戦の機首部分とプロペラが置かれている。
 
飛行神社から安居橋を渡って東高野街道に戻る。途中の道の角に、八幡土井地蔵尊がある。
 
安居橋(あんごばし)の上から、放生川を望む。
 
正面からの、安居橋(あんごばし)。
 
安居橋(あんごばし)説明板。
 

 安居橋(あんごばし)

 安居(あんご)の名の由来には、諸説があります。

 一説では、鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたと言われています。

 また、かってすぐ川下にあった「五位橋」に相対する仮の橋として造られたため「相五位橋(あいごいばし)」と呼ばれ、これが変化して安居橋と呼ばれるようになったとの説もあります。

 江戸時代はじめには、この場所に橋が架けられていたことが古絵図で確認できますが、構造は反り橋でなく、平橋で描かれています。

 元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景のひとつとして選ばれ、数々の歌が詠まれています。

 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが古くからの「高橋」という反り橋(太鼓橋)が約150m川下にあったことから、この高橋を偲ばせる形で再興されました。

 現在は石清水八幡宮の神事である石清水祭(方生会)の舞台として親しまれています。

                      八幡市

引用元:安居橋(あんごばし)説明板
 
 
安居橋(あんごばし)の全景。
 
石清水八幡宮の横の道は「パヴェ(Pave)」になっており、ガタガタとして走りにくい。
 
電柱に「東高野街道」の標識が貼ってあり、心強い。
 
「八幡橋」。「東高野街道」は渡らず直進だが、道標があったのでこの橋を渡って、次の辻を右折して行く。
 
「八幡橋」を渡って行くと、次に「かいやばし」を渡れば「東高野街道」に合流する。
 
右手に「本妙寺」がある。
 
「本妙寺」前を少し進むと、右前の電柱にカーブミラーが取り付けられていて、その下に、左:「東高野街道」と左:「図書館」の標識があるので、ここを左折する。
 
突き当りに「八幡市民図書館」がある。
 
「八幡市民図書館」の脇に、「東高野街道」の道標が立っている。
 
すぐに右折して、元の「東高野街道」に戻ると「善法律寺」がある。
 
「善法律寺」説明板。
 

 奈良唐招提寺末で律宗に属す。鎌倉時代、正嘉年中(1257~1259)石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。

 室町時代には、善法寺通清の息女紀良子が足利3代将軍義満を生んだことから将軍家との関係が深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。

 本堂は、内陣を高御座と呼ぶ神仏混淆(コンコウ)の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したとされ、建築年代は不詳であるが、桃山時代の特徴を示すといわれる。

 本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形八幡坐像といわれ、明治の神仏分離の際に当寺移された。像高92cm、木造彫眼、平安時代末頃のものといわれる。両脇には、愛染明王・不動明王があり、寄木造り玉眼彩色の等身大で創建時の作である。

 奥殿には宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀如来(南北朝時代)や善法寺祐清が造立した観音堂の本尊千手観音菩薩立像(鎌倉時代)など寺宝は多い。放生池畔には、もと大乗院にあったという五輪塔(鎌倉時代)もある。

 また、境内には昭和9年の室戸台風で犠牲になった八幡尋常高等小学校の校長生徒等の慰霊碑がある。

        1994年3月  八幡市教育委員会

引用元:「善法律寺」説明板
 
 
「神原交差点」。交差点の手前に「東高野街道」の道標が立つ。
 
「神原交差点」を過ぎると、清水井に「正法寺」がある。
 
「正法寺」。
 

 今から約830年前に開かれた正法寺は、室町時代に後奈良天皇の勅願寺となり、その後、徳川家康公の側室、尾張藩初代藩主・徳川義直公の実母である「お亀の方(相応院)」の菩提寺として発展してまいりました。 重要文化財の本堂・大方丈・唐門、京都府指定文化財の小方丈・書院・鐘楼、そして庫裏の七堂伽藍からなり、現在も創建当初の建物の規模そのままに保っています。また重要文化財の阿弥陀如来坐像や狩野派の襖絵、京都府の名勝指定の庭園など見どころもたくさんございます。どうぞ一度、京都八幡の正法寺をご参拝・ご拝観ください。

 
 
魚季という料理屋を過ぎて、ありあけ公園の横に「東高野街道」の道標が立つ。
 
しばらく進むと「京街道の石碑」がある。「左・東在所道 右・京街道」。

 
松花堂庭園 椿園の北西角にも「東高野街道」の道標が立つ。
 
「松花堂公園」への分岐点の角に、「水月庵」の道標が立つ。「東高野街道」は右手へ入って行く。
 
実際の水月庵(水月寺)は、ここから南南西の方向、円福寺(達磨堂)の西にあるようで、かなり離れているのこの場所に道標が置かれていることは、この道(東高野街道)が主要道であったことを意味している。
 
本来右に行くべきところを、左側の松花堂庭園の塀に沿って進むと、車塚古墳の石碑と表門の表札が建っている。
 
「東車塚」と「西車塚」があるようで、「東車塚」は前方後円墳で、現在、松花堂庭園の築山に利用されているという。
 
表門の表札。
 
「月夜田交差点」に出る。
 
「月夜田交差点」の手前は公園になっており、トイレもある。
 
公園の様子。
 
この公園は、「昭乗広場」の名前が付けられている。
 
「八幡市立 松花堂庭園・美術館」に寄ってみた。
 
「史跡 松花堂」の石碑。
 
庭園内にある「京都吉兆 松花堂店」。
 

 松花堂 と 吉兆 松花堂弁当

 もともとは農家の種子入れだった器を、江戸時代初期に活躍した石清水八幡宮の社僧である 松花堂昭乗(1582~1639)が取り上げ、小物入れにしていたと伝えられています。 吉兆の創業者・湯木貞一がそれを弁当箱に考案したものです。

 
 
「松花堂庭園」案内板。
 

 松花堂及び書院庭園について

「松花堂庭園・美術館」(しょうかどうていえんびじゅつかん)は江戸時代初期の文化人・松花堂昭乗が当初『石清水八幡宮』の境内に造った草庵“松花堂”を中心とした回遊式庭園と美術館。その庭園が「松花堂及び書院庭園」として国指定名勝となっています。

 松花堂昭乗は江戸時代初期、寛永文化の中心人物のひとり。小堀遠州とともに茶室を造ったり、石川丈山とともに『酬恩庵(一休寺)庭園』を作庭した人物。

 現在“内園”にある「松花堂」及び「泉坊書院」は元は『石清水八幡宮』にありましたが、明治時代の神仏分離により八幡宮のある男山からは取り払われ、1898年(明治31年)に現在地に移築。なお男山の“松花堂跡”も国指定史跡になっていますが、文字通り“跡”であってほぼ何も残されていません。

 
 
「月夜田」交差点を渡ったところに、「岡の稲荷社の碑」がある。右:高野街道。
 
「吉井」バス停で右折。
 
右折すると「八幡安居塚」という町名になり登り坂となる。右側を行く。
 
やがて竹林の中を進む。
 
登りきると、「達磨堂 円福寺」前に到着。
 
「達磨堂 円福寺」参道。
 
「円福寺」説明板。
 

 円福寺

 天明年間(1781~88)斯経(しけい)禅師により開創された臨済宗妙心寺末の修行道場である。山門・坐禅堂等を備えた伽藍は、江戸時代末頃より整備され、現在も専門修行道場として、その規模を誇る。

 当寺所有の達摩大師坐像は、重要文化財に指定され、像高82cm、檜材寄木造り、玉眼嵌入の鎌倉時代の作である。この像は、もと大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、文化4年(1807)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置した。

同じく重要文化財の大般若経は、奧書はないが書風より奈良時代前期の写経といわれ、薬師寺の印をもち、もと奈良の薬師寺に伝わったものであった。一部、鎌倉・室町時代の補写がある。

引用元:「円福寺」説明板
 
 
円福寺の前を、国道1号枚方バイパス:京阪国道に向かって降りたところに「洞ケ峠茶屋」がある。
 
「洞ケ峠茶屋」。
 
「洞ケ峠茶屋」。
 
「洞ケ峠茶屋」。
 
「洞ケ峠(ほらがとうげ)」説明板。
 

 洞ヶ峠

 この峠は、京都府(山城国)と大阪府(河内国)との国境をなし、かっては東高野街道の要衝の地であったため、南北朝時代には男山・荒坂山とともにたびたび戦乱の舞台になった。

 本能寺の変(天正10年(1582))の後、明智光秀と羽柴秀吉が山崎の合戦をした折、光秀に助勢を頼まれた大和郡山の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方しようと観望していた場所として有名である。この誇示から日和見することを「洞ケ峠を決め込む」ともいう。

 しかし実際には、順慶は洞ヶ峠まで出かけるどころか、光秀の誘いを蹴り郡山城に篭城していたという。それにもかかわらず、順慶は日和見主義の代表者の汚名を着せられ、一方、そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている。

                平成6年 枚方市教育委員会

引用元:「洞ケ峠」説明板
 
 
この辺りの地名は「八幡市高野道」となっており、ここまでは、京都府八幡市で、ここを境に、南は「枚方市高野道」になる。
 
 
 
2. 枚方市高野道~枚方市出屋敷
 
元の道に戻って南下する(駐車場横)。すぐに「枚方市高野道」という地名になった。
 
高野道公園辺り。
 
西松屋 枚方高野道店が見える方向に右折。
 
万代 枚方高野道店の前を通り過ぎた地点で、左折。
 
フォレオひらかた「枚方市高野道1丁目」の裏辺り。
 
突き当りになるので、左折。
 
この辺りで、「枚方市高野道1丁目」という地名から「枚方市招提田近2丁目」に変わる。
 
続いて、R1:京阪国道に突き当たるので、手前を右折するが、少し北に「菅原天満宮」がある。
 
国道1号枚方バイパス:京阪国道沿いを南下。


 
右手に新大池がある。
 
「出屋敷北」信号で左折。
 
「出屋敷北」の信号左側に出た後、京阪国道沿いに入る。
 
山田池公園に出るので、ここを右折する。
 
「穂谷川(ほたにがわ)」を渡り、信号で左車線に入る。
 
R1:京阪国道に出る手前で左折し、出屋敷元町に入る。
 
出屋敷元町、入口の様子。
 
出屋敷元町に入ると、「東高野街道(出屋敷地区)」の案内板がある。
 
※:東高野街道を走った中で「出屋敷地区」の道路と案内が、一番整備され、一番美しく、一番走りやすい、旧道の景観を残す最高の区間だった。
 
東高野街道の道標と説明板。
 
東高野街道の説明板。
 
府道18号枚方交野寝屋川線に出る。
 
 
 
3. 枚方市中宮~枚方市茄子作
 
府道18号枚方交野寝屋川線に出ると、枚方市立陸上競技場がある。
 
村野浄水場の前を行く。
 
出鼻橋交差点。
 
出鼻橋を渡る。
 
出鼻橋を渡ると、直ぐに左折する。
 
郡津に入る。
 
郡津の集落の中を行く。
 
郡津4丁目で右にカーブする。
 
「梅が枝」で府道に合流。
 
「京阪交野線」の踏切を越える。
 
府道18号枚方交野寝屋川線の、高架に沿って進む。
 
国道168号と新天野川橋。
 
新天野川橋を渡ると、すぐに左折する。
 
ここから、川の左岸を川沿いに進む。交野市へ入って来た。
 
私部西4北交差点:茄子作東公園。
 
何処からかわからないが、R168がこちら側になっている。
 
私部西4交差点手前。
 
本尊掛松の跡地に建つ石碑。
 
本尊掛松跡。
 
「本尊掛松」説明板。
 

 本尊掛松(ほんぞんかけまつ)

 元亨(げんこう)元年(1321)11月16日夜、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)中興の祖法明(ほうみょう)上人が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(じゅういっそんてんとくにょらい)の画像を授かった。

 上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(しょうみょうねんぶつ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。

 やがて一夜の宿を乞うたのが犬井甚衛門(いぬいじんえも)屋敷(茄子作北町)であったという。

 「本尊掛松」はこの画像を掛けたことに由来し、別名「ホトトギス松」とも言われるのは、ホトトギスの鳴き声を「ホンゾンカケタカ」と聞きなすためである。

                                                        1994年 枚方市教育委員会

引用元:「本尊掛松」説明板
 
 
枚方市茄子作南町に道標が建つ。
 
「大峰山 右 宇治 左 京八幡道」。
 
この辺りは、枚方市茄子作南町。
 
第二京阪道路の天野川高架橋。
 
 
 
4. 交野市星田~寝屋川市
 
茄子作南町の信号で、第二京阪道路の天野川高架橋の下を通って、大阪府道20号枚方富田林泉佐野線を進む。
 
交差点の対面に、ローソン 交野星田北三丁目店が見える地点で右折。
 
星田北5丁目の交差点で、田んぼの中の一本道に左折。
 
JR学研都市線の高架が見える地点で、田んぼの一本道が終わる。
 
学研都市線の高架下を越えて、右折。
 
星田駅の南に出る。前方分岐点は右に行く。
 
民家の狭い道を行くと川の手前に、「大井川万吉」と刻まれた、安政3年(1856)の石碑があった。
 
「大井川万吉」は、この辺りの大谷出身で、河内相撲から江戸相撲に出世した人、ということであった。
 
「傍示川」を渡ると、左手に「弘法大師献燈・大谷北大師祠・地蔵・柳谷伏拝燈籠」が並んでおり、その先には細い旧道らしい町並が続いている。
 
この辺りは「東高野街道を挟んで」、東側が交野市星田、西側が寝屋川市大谷の町である。
 
再び「大阪府道20号枚方富田林泉佐野線」に合流する。この辺りのは右手が「寝屋川市大谷町8」、左手が「交野市星田5丁目」。
 
「もち吉 寝屋川店」前の信号で、右折し「大阪府道20号線」を離れる。
 
打上元町8で、右折する。前方に「星田ゴルフセンター」のネットが見える。
 
「打上元町」の住宅地を抜けて進むと、左手に「ねや川 文化と歴史のみち」の案内板が立っていた。
 
これ以降、寝屋川市内には至る所にこの案内板があり、「鉢かづき姫」がモチーフになっている。
 
案内板のすぐ先に、「弘法井戸」がある。
 
「鉢かづき姫」が持つ、「弘法井戸」説明板。
 

 弘法井戸(こうぼういど)

 東高野街道ひがしこうやかいどうの道端にあり、土地の人々が「弘法井戸こうぼういど」と呼び親しんでいるのがこの小さな井戸です。そばに「弘法観念水こうぼうかんねんすい」と刻んだ小さな石柱が建てられています。水への感謝と弘法信仰が結びついたものでしょう。

 この井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれています。

 高野山へ通ずるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う数多くの人々の渇きをいやしたことでしょう。

                     寝屋川市

引用元:「弘法井戸」説明板
 
 
「大阪府道20号線」を、右斜め前に横切って進む。
 
「打上の四つ辻」に出る。
 
安政4年の道標が立ち、「「東 なら いせミち 南 かうや のさき 大坂みち 北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれている。右には、四ツ辻の説明板を持った鉢かづき姫。
 
「四ツ辻(東高野街道)」の説明板。
 

 四ツ辻(東高野街道)

 ここ打上の四ツ辻は、南北に走る東高野街道と東西を走る奈良伊勢道の交わるところです。ここに立つ道標には「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大坂みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」と刻まれています。伊勢神宮・高野山・柳谷観音にお参りする聖や善男善女を案内したことでしょう。

 また、東西に「安政 四巳正月 為父母 施主酒勘」と刻まれており、この道標は、安政4年(1857)に酒屋の勘兵衛さんが父母のために建立したことが分かります。

 かって、道標の側には小さな石橋がかかっていました。今その溝を覗くと「往来安全」「酒勘」と刻まれた石橋の一部が見られます。

引用元:「四ツ辻(東高野街道)」の説明板
 
 
「大阪府道20号線」に合流すると、寝屋川公園がある。
 
学研都市線 寝屋川公園駅。
 
寝屋川市の案内板。
 
左手に、打上古墳群と弘法大師像がある。
 
「打上古墳群と弘法大師像」の説明板。
 

 打上古墳群

 打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の「河内名所図会」には、「八十塚同村にあり由縁不評、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚、ほり塚、ぬめり塚、から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かって打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。この付近の地名は、高塚といいます。ここにある多くの花崗岩の巨石は、かってこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられます。

 弘法大師像

 また、ここには、多くの巨石で祠をつくり「お大師さん」と呼び親しまれている弘法大師像が安置されています。いつごろ安置されたか不明ですが、像の台石には「四十番」「四十一番」の番号が刻まれています。この付近にあります打上の弘法井戸、正縁寺などの大師像にも前後の見られるところから、これは札所番号で、当時、これらの大師像を巡る「霊場巡礼」が行なわれていたと考えられます。打上では、今も大師御膳講の人々が毎月二十一日には御膳をお供えしています

引用元:「打上古墳群と弘法大師像」の説明板
 
 
打上南町15の角に、「ねや川 文化と歴史のみち」案内板がある。
 
高倉1丁目:「二月堂灯籠」。
 
高倉1丁目の所で旧道は一旦左側へ回り込んでおり、入口に大きな「二月堂灯籠」が立つ。
 
「二月堂灯籠」説明板。
 

 二月堂石灯籠

 ここ旧東高野街道沿いにあります2つの石灯籠の内、左側の大きな灯篭は、花崗岩で組み立てられ、高さ約3mを測ります。脚部の正面に「二月堂」と刻まれ、側面には、今(1992年)から約150年前の「天保十四年」(1843)の年号が刻まれています。

 「二月堂」は、奈良東大寺二月堂を指すのでしょう。くわしいことはわかりませんが、古老の話によれば、当地には「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも、三月のお水取りの頃には、東大寺二月堂に参拝するといいます。

 また、右側の石灯籠は「八幡宮」と刻まれ、江戸時代中頃の明和3年(1766年)の年号が刻まれています。これは、国守神社が八幡宮と呼ばれていた頃に氏子の人々によって寄進されたものです。

引用元:「二月堂灯籠」説明板
 
 
正縁寺十三仏板碑。
 
讃良川(さんらがわ)に出る。
 
 
 
5. 四條畷市
 
讃良川(さんらがわ)沿いを走り、高倉1丁目で左折して「大阪府道20号線」に出る。ここから、四條畷市。
 
JR学研都市線の下を潜る。
 
忍ケ丘駅前の交差点。
 
忍ケ丘駅。
 
サンマンションアトレ忍ヶ丘 グランシャリオ横を通って、岡部川を渡る。
 
三徳稲荷大明神。
 
三徳稲荷大明神のところで、右折する。
 
四條畷市市民総合センター前を行く。
 
東高野街道と清滝街道(きよたきかいどう)の交差点。
 
清滝街道(左折)方面を見ると、角の民家前に道標がある。
 
左は「右清滝街道 すぐ東高野街道」、中は「靍澤亀梥 東いせなら 南かりや 門弟中」で、文楽三味線師匠の靍澤亀梥(かめさわかめまつ)の遺徳を顕彰して建立した石碑。右の地蔵(寛政10年(1798))には「右ならいせ道 左京やハた道」と記されている。
 
道の向こう側を清滝川が流れている。ここが、清滝街道(左折)の起点とし、右折すると東高野街道。
 
右折してすぐの JA大阪東部四条畷支店の前に、清滝街道の道標がある。
 
この西に小さな「三坪橋」があり、ここを左折して「東高野街道」が続く。
 
 
次のコース:
 

 

以上。
(2020.10.27)

 

 

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