~アラカンからのサイクルライフ~

東高野街道をロードバイクで辿る

大阪府のサイクリングコース
27-052 東高野街道 約 56㎞
 
東高野街道を、スタート地点の京都府八幡市の「岩清水八幡宮」から、東高野街道・中高野街道・西高野街道が交わり、高野山へと向かう、高野街道のスタート地点「河内長野駅前」までを、5つの区間に分けてロードバイクで辿り、街道の様子と旧跡を記録した。
 
石清水八幡宮 一の鳥居
石清水八幡宮 一の鳥居。
 

 

スポンサー リンク

 

 
 
東高野街道の全長と5つの区間
 
東高野街道は、名所・旧跡があまりに多いので、下図の5つの区間に分けて記録した。

 
コース地図
 
京都府八幡市の「岩清水八幡宮」を起点に、「河内長野駅前」までの【27-062 東高野街道 約 56㎞ 】コース地図。
 
 
 
 
 
1. 岩清水八幡宮~清滝街道との交差点まで
 
東高野街道 スタート地点の様子
 
スタート地点の、京阪電車「岩清水八幡宮駅」。
 
駅の南東角に、「東高野街道」の道標が建っている。
 
すぐに、放生川に架かる「全昌寺橋」に出会。
 
石清水八幡宮 の、「一の鳥居」前迄行ってみる。
 
この後、石清水八幡宮の横の「パヴェ(Pave)」を通って、東高野街道の散策を開始する。
 
 
その1 コースハイライト
 
国道1号枚方バイパス:京阪国道の横にある「洞ケ峠茶屋」。
 

 洞ヶ峠

 この峠は、京都府(山城国)と大阪府(河内国)との国境をなし、かっては東高野街道の要衝の地であったため、南北朝時代には男山・荒坂山とともにたびたび戦乱の舞台になった。

 本能寺の変(天正10年(1582))の後、明智光秀と羽柴秀吉が山崎の合戦をした折、光秀に助勢を頼まれた大和郡山の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方しようと観望していた場所として有名である。この誇示から日和見することを「洞ケ峠を決め込む」ともいう。

 しかし実際には、順慶は洞ヶ峠まで出かけるどころか、光秀の誘いを蹴り郡山城に篭城していたという。それにもかかわらず、順慶は日和見主義の代表者の汚名を着せられ、一方、そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている。

                平成6年 枚方市教育委員会

引用元:「洞ケ峠」説明板
 
 
その1 区間終了地点の様子
 
東高野街道と清滝街道(きよたきかいどう)の交差点の様子。
 
 
コース詳細:
 
 
 
2. 清滝街道との交差点~箱殿東交差点まで
 
その2 スタート地点の様子
 
四條畷市の「東高野街道と清滝街道との交差点」。ここから【その2】区間のスタート。
 
右折してすぐの JA大阪東部四条畷支店の前に、清滝街道の道標がある。
 
この西に小さな「三坪橋」があり、ここを左折して「東高野街道」を行く。
 
国道163号学研都市連絡道路の下を潜り、旧道に入る。
 
 
その2 コースハイライト
 
四条畷神社:境内入口と鳥居。
 

 父の意志を継いで戦った 楠正行(くすのき まさつら)を祀る神社

 四條畷神社の御祭神・楠正行(くすのき まさつら)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、不利を覚悟で南朝側に立って戦った武将、楠正成公の嫡男です。明治以降、父は大楠公、息子は小楠公と呼ばれ、親しまれました。
 正成公は最後の戦いとなった湊川(現神戸市中央区)に出陣する際、桜井(現大阪府三島郡島本町)で遺言します。「父の死後は足利の天下となるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ。それが父への孝行となる」と。これが有名な"桜井の別れ"です。

 
 
その2 区間終了地点の様子
 
国道308号線との「箱殿東」交差点に出る。ここで、【その2】区間の終了。
 
ここを左に進むと、想像もできない「酷道308号線:暗峠」に向かう。
 
 
コース詳細:
 
 
 
3. 箱殿東交差点~新大和橋まで
 
その3 スタート地点の様子
 
「暗峠越え奈良街道」との「箱殿東」交差点で、ここを左折すると「酷道(国道)308号線:暗峠」に向かう。東高野街道は正面の信号を直進して、【その3】区間のスタート。
 
信号から、箱殿町5に入った街道の様子。
 
東大阪市立枚岡中学校の横を行く。
 
枚岡神社 一の鳥居手前の、鳥居町5の様子。
 
 
その3 コースハイライト
 
恩智神社の参道を下る途中を、左手に入ると「恩智城址」がある。
 

 恩智城址
 恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。
 堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
 正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。
 学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。

引用元:恩智城址の石板
 
 
その3 区間終了地点の様子
 
「大和川治水記念公園」の向かいは大和川で、少し東に行けば新大和橋の手前に着く。ここで、【その3】区間の終了。
 
 
コース詳細:
 
 
 
4. 新大和橋~富田林市中野町3丁目交差点まで
 
その4 スタート地点の様子
 
大和川を渡る柏原市側からの「新大和橋」。ここから【その4】区間のスタート。
 
「新大和橋」を渡ると対岸は石川の左岸で、「南河内サイクルライン(八尾河内長野自転車道線)」。右は「近鉄道明寺線」。
 
「新大和橋」を行く。
 
 
その4 コースハイライト
 
「道明寺」楼門。
 

 道明寺略縁起

 当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。

仏法に帰依されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。

これが当時の前身土師寺で、その後菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当時に立寄られ一首を残されています。
 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の
        鳴からむ里の暁もかな

 戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興成り朱印地に認められました。

 明治五年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大正八年には本堂の落成をみ、多宝塔を加え建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺として現在に至っております。

引用元:「道明寺略縁起」説明版
 
 
その4 区間終了地点の様子
 
国道170号線を南下すると、「桜井」の交差点に来る。ここで、【その4】区間の終了。
 
「桜井」の交差点の右側を見ると、「美具久留御魂神社」の鳥居が立っている。
 
 
コース詳細:
 
 
 
5. 富田林市中野町3丁目~河内長野まで
 
その5 スタート地点の様子
 
国道170号線の中野町3丁目交差点。旧道は左側の道に入っていく。ここから【その5】区間のスタート。
 
富田林市中野町の住宅街を通る、東高野街道。
 
 
その5 コースハイライト
 
富田林寺内町 城之門筋の様子。
 

 富田林寺内町

 永禄初年頃(1558~1560年頃)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。  現在も創建当時の六筋七町(後に八町)の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、大阪府指定文化財仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されています。また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

 
 
東高野街道 終了地点の様子
 
長野商店街のアーケードに出る。ここを左に進む。
 
アーケードを抜けると、南海高野線の「河内長野駅前広場」が見える。
 
東高野街道・中高野街道・西高野街道が交わり、高野山へと向かう高野街道のスタート地点「高野街道のモニュメント」に到着。
 
「高野街道のモニュメント」。ここで、【その5】区間の終了。
 
「高野街道のモニュメント」横の石碑。北西:西高野街道、北東:東高野街道。
 
 
コース詳細:
 
 
以上で、京都府八幡市の「岩清水八幡宮」から始めた「東高野街道」の散策は、ここ「河内長野」で完結。
 
 
参考:
 

 

以上。
(2020.09.28)

 

 

スポンサー リンク