~アラカンからのサイクルライフ~

街道をゆく『堺・紀州街道』を走る

街道をゆく『4-4. 堺・紀州街道』
大阪府のサイクリングロード
27-033 阪和線長滝~紀州街道~大和川 約40km 
 
街道をゆくの紀州街道の中に『この遭遇戦の戦場は、国鉄阪和線「新家(しんげ)」駅北方の樫井(かしい)という村であった。』という記述があり【遭遇戦=樫井合戦】の村を走ってみようとおもい出かける。
 
樫井の街並み
(泉佐野市 樫井の街並み)
 
 
コース地図
 
紀州街道は一直線のルートなので、阪和線長滝駅まで輪行し、 長滝駅から紀州街道に出て、堺へ北上するルートを辿ることにする。JR阪和線に乗るには、杉本町駅の北にあるコインパークが、駅に最も近かったのでここに駐車する。
 
 

 

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司馬さんの旅の時期 1973年2月
 
紀行テーマ・地点・歴史
 

 中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きい想像力をはたらかさなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。 ・・・ 信長により、自由都市である堺は死滅するのだが ・・・しかしながら信長の意図はそれをはるかに超えたものであったであろう。かれは自治を縊り殺したかもしれないが、その国家構造では 堺の貿易を国家規模にまでひろげ、瀬戸内海を通じてゴヤを見、ローマを見、マドリッドを見ようとしていた。・・・ 司馬遼太郎

 
司馬さんが訪れた地点
◆ちく満:宿院にある蕎麦屋
◆南宗寺:千利休・今井宗久・津田宗及ゆかりの禅寺。
◆船待神社:阪堺線「御陵前」から南へすぐの紀州街道沿いにある。
◆淡輪六郎兵衛重正の墓:団右衛門の僚友で樫井の戦闘で戦死した。
◆塙団右衛門の墓:討ち取った者の孫が、祖父が討った豪傑の墓を作る。
 
堺 日本に例外的に存在した自由都市の見果てぬ夢をふくんでいる
 
 
コースのポイントと標高差
 
27-033 阪和線長滝~紀州街道~大和川 約40km。
 
海沿いの、全く平坦なポタリングコース。
 
 
JR阪和線 杉本町駅の北にあるコインパーク
 
杉本町駅の北にあるコインパークまで車で行き、駐車。
 
杉本町駅は駐車場のすぐ南にあるので、歩くのも楽。
 
 
JR阪和線 長滝駅
 
阪和線長滝駅まで輪行し、駅前で自転車を組み立てる
 
阪和線長滝駅を出発。
 
 ここから、塙団右衛門の墓と淡輪六郎兵衛重正の墓を見て、りんくうタウンに抜け、 紀州街道を北上するコースを辿った。
 
 
塙団右衛門の墓
 
塙団右衛門の墓。
 
◆塙団右衛門:ばんだんえもん。
安土桃山時代の武将、名は直之(なおゆき)。
 
墓所のそばに立っている高札(こうさつ)の内容 。

 塙 団右衛門(ばん だんえもん)の五輪塔(ごりんとう)
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討ち死にした塙団右衛門直之の五輪塔である。団衛門は尾張国羽栗(はぐり)の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関が原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛(てつぎゅう)と号した。
大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大阪城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討ち死にした。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇(そうこ)、亀田大隈(おおすみ)あるいは八木信左衛門などの説があり一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠(いしどうろう)は八木信左衛門の孫が奉納した。
250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。

 ・・・「つまり、美談でしょうか」。
 
 
淡輪六郎兵衛重正の墓
 
淡輪六郎兵衛重正の墓。
 
◆淡輪六郎兵衛重正。
大坂夏の陣で地形に詳しいことから紀州攻めの先鋒を務めた。
 
墓所のそばに立っている高札(こうさつ)の内容 。

 淡輪六郎兵衛(たんのわろくろうべえ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
慶長20年(1615)、大坂夏の陣がおこり、豊臣、徳川方が最初に激突したのが樫井合戦である。
この石塔は、豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔である。
淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局(おごうのつぼね)で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大阪城を攻撃するよう命じた。
これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙 団右衛門(ばん だんえもん)とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。

 
 
田尻スカイブリッジ
 
高く、長い、大きな田尻スカイブリッジ。
 
橋上からの眺望。
 
関空が見渡せて素晴らしい。 
 
田尻スカイブリッジ。
りんくうタウン北地区と中地区を田尻漁港を跨いで結ぶ位置にあり、全長338.1メートル、幅26.3メートル、往復4車線、高さ110メートルと国内でも大きな斜張橋で、景観も美しい。遊歩道が整備されているので、沖合い5kmにある関西国際空港を離発着する様子が見渡せ、気持ちよくウオーキングを楽しむことができる。
 
 
りんくうタウン
 
りんくうタウン。
 
マーブルビーチ。
 
りんくうタウン・アウトレットモール。
 
りんくうタウン。
関西国際空港の対岸にひろがる、白い浜辺”マーブルビーチ”、緑を浴びながら海にふれる”りんくう公園”、海外の街並みを感じさせるショッピングセンターなど、一日中遊べる”まち”。
 
 
 
昼食は、泉佐野市りんくう往来北にある モンスターハウス (泉佐野/洋食・欧風料理)で摂る。
 
 
二色の浜公園
 
二色の浜公園入り口。
 
二色の浜公園の眺望。
 
二色の浜公園(にしきのはまこうえん)。
昭和26年、海水浴の楽しめる海浜公園として誕生した。古くからの松林の景観をとどめる松風広場ゾーン、レストハウスや児童遊戯場などの施設を整えた中央ゾーン、海浜性の樹木を植えた潮風の森ゾーン、スポーツが楽しめるスポーツの森ゾーンなどで構成され、だれもが自然とスポーツにふれあえる公園となっている。
 
 
岸和田城
 
天守と八陣の庭。
 

 岸和田城庭園(八陣の庭)
昭和28年に日本の昭和期における代表的な庭園研究家であり作庭家でもあった重森三玲(しげもりみれい)氏によって、設計、作庭された。本庭園は、上・中・下3段の基壇の中央に、大将の石組みを配置し、これを中心に8つの石組みが円形に配置されている。中国三国志の英雄として名高い諸葛孔明(しょかつこうめい)の「八陣法」をイメージしたもので、これらの石組みは地上からは、360度どの角度からも鑑賞することができるようになっている。また本庭園は、岸和田城天守閣の最上階の眼下にあって、その全容を眺望することができ、これまでの水平方向の視点だけでなく、垂直方向に展開する多様な視点を意図した本庭園は独創的で、国内外で注目されてきた。

 
北東から見た岸和田城。
 
岸和田城。

 安土桃山時代に豊臣秀吉の叔父小出秀政(ひでまさ)が5層の天守を築いた城。建武年間(1334~36年)頃、楠木正成(くすのきまさしげ)の一党和田高家(たかいえ)が現在の和田町あたりに築城したのが岸和田城の始まりといわれる。その後、和泉守護細川氏や守護代松浦氏など、城主がめまぐるしく交代した。その間に現在地に移されたが、天守閣もなく、館の周囲に塀や土塁をめぐらせただけの城館であった。1585年(天正13)、豊臣秀吉の叔父小出秀政が3万石で入封、秀政は本格的な築城にとりかかった。このとき5層の天守閣を築くなど、近世城郭として整備された。豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏3代を経て、1640年(寛永17)摂津高槻から岡部宣勝(のぶかつ)が入城、大規模な改修が行われた。以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって居城した。

 
 
紀州街道の道標
 
紀州街道の道標。
 
紀州街道 Y字路 地点 (石津川より少し南の辺り) 。
 
プランタン珈琲商会: 泉大津市神明町。
 
 
田中家住宅
 
田中遠江守陣屋跡 。
 
田中家住宅=田中遠江守陣屋跡 。

 室町末期の元亀年間(1570~73年)に田中遠江守重景が助松村に移住したのが初めとされ、江戸時代には大庄屋を勤め、徳川頼宣公が紀州に封じられてからは、紀伊徳川家の指定小休所として本陣を承っていた。
屋敷は、旧紀州街道沿いにあって、1町(約110m)四方の大きさで、江戸時代の豪農であったことがうかがえる。

 
 
浜寺公園
 
浜寺公園。
 
 
船待神社
 
船待神社。
 
◆船待神社。
菅原道真公が太宰府へ下る途中、河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ。
 
 
堺:日本に例外的に存在した自由都市を散策 その1
 
綾ノ町から南側の紀州街道は 、浜寺駅前まで阪堺電気軌道阪堺線が道路の中央を走る。
 
 紀州街道の右側を南に走ると、ザビエル公園がある。 
 
 ザビエル公園。
 
 ザビエル公園。

 戎(えびす)公園はイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に昭和22年(1947年)計画された。昭和24年(1949年)の公園開設が、フランシスコ・ザビエル来航400年であったことから、それを記念してザビエル公園という名称が使われるようになった。

 
フェニックス通りに面して、さかい利晶の杜がある。
 
  さかい利晶の杜。
 
 さかい利晶の杜の横の通り。
 
さかい利晶の杜。
 
さかい利晶の杜。
2015年3月20日、堺市に「さかい利晶の杜」がオープンした。堺の偉大な先人、千利休と与謝野晶子の生涯や功績にふれながら、茶の湯体験ができたり、市内の観光情報を入手できたりと、いろいろな楽しみ方ができる施設。
 
さかい利晶の杜の横にある、千利休屋敷跡。
 
 この並びの南側に、ちく満の裏口がある。
 
 
ちく満
 
ちく満。あいにくの定休日。
 
ちく満。
創業元禄8年という半端でない老舗の蕎麦屋。創業してから300年以上、ちょうど八代将軍吉宗が生まれた年にこの地に産声をあげた店。
 
 
南宗寺
 
南宗寺。
 
南宗寺。
 
南宗寺。
 
◆南宗寺。
古田織部作と伝わる枯山水庭園、利休好みの茶室実相庵などがある。
 
南宗寺裏手の土居川。
 
 
堺:日本に例外的に存在した自由都市を散策 その2
 
南宗寺裏手の土居川にある、「環濠の橋めぐり」案内板。
 
南宗寺裏手の土居川にある、案内板。
 
案内板の内容。

 環濠の歴史
『中世の自由都市・自治都市』の栄華を今に伝える土居川は、豊臣秀吉に一度埋められましたが、徳川時代初期に再びひと回り大きく掘り起こされました。この土居川と元禄時代に柏原から東へまっすぐに付替えられた大和川の運ぶ土砂によりできた土地に舟運のため掘られた運河(内川)が、今の環濠のまちを形づくっています。現在は、阪神高速道路堺線整備に伴い一部が埋められていますが、環濠で囲まれたまちは碁盤の目のように整備され、東西南北いずれからもまちに出入り出来るよう多くの橋が架けられていました。

 
 環濠の橋めぐり:下記の、オレンジ色の道を辿ってみた。
 
 砂利橋からの土居川。
 
山之口橋。
 
山之口橋からの少林寺橋を望む。
 
鶯橋を過ぎて、右に大きく曲がるコーナーからの鶯橋。
 

中橋を望む。

住吉橋から龍神橋を望む。
 
土居川から内川の河畔に変わり、戎橋から新橋を望む。
 
内川にある、桜並木の案内板。
 
堺市立 月州中学校 東側の神南辺橋から宿谷橋方面。
 
内川放水路方面への三叉路になった所。
 
内川放水路が海に出たところの海岸。
 
土居川に沿って、旧堺港の大浜公園に出るべきだった。
 
 
仁徳天皇陵
 
仁徳天皇陵。
 
◆仁徳天皇:にんとくてんのう。
第16代天皇。応神天皇の第4皇子。
 
 
大仙公園
 
 大仙公園の桜。
 
 
反正天皇陵
 
反正天皇陵。
 
◆反正天皇:はんぜいてんのう。
第18代天皇。仁徳天皇の第三皇子。
 
 
高須神社
 
 高須神社。
 
高須神社
 
高須神社。
 
◆高須神社。
芝辻理右衛門が鉄砲鍛冶の繁栄を祈願して創建。
 
そばに立っている高札(こうさつ)の内容 。

 高須神社(たかすじんじゃ)
慶長14年(1609)、鉄砲鍛冶芝辻理右衛門は、徳川家康から鉄張の大筒を作ることを命ぜられ、銃身一丈(約3m)、口径一尺三寸(約39cm)、砲弾重さ一貫五百匁(もんめ)(約 5.6kg)の大砲を作りました。これは、わが国で作られた最初の鉄製大型大砲でした。
その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣のときにも、1,000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615)高須の地(当神社付近)を賜りました。
芝辻家は、自らと堺の鉄砲鍛冶の繁栄を願って、この地に稲荷明神を勧請して当神社を建てました。豊受大神(とようけのおおかみ)・猿田彦命・大宮姫命・大物主命を祀っています。

 
 高須神社の裏にある、阪堺電気軌道阪堺線の高須神社駅。
 
 
紀州街道・大和橋
 
 紀州街道・大和橋に帰着。
 
 紀州街道・大和橋
 
 
本日のアクティビティ。
走行距離:47.35km、走行時間:3:17:27、上昇高度:125m
 

以上。
(2015.05.06)

 

 

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